映画古今東西
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『ボイコット』 モフセン・マフマルバフ/1986年・イラン

いや〜おったまげました。なにがって、演出がとんでもなく野暮ったい!(笑)。近年の洗練されたマフマルバフ・スタイルのイメージがあっただけに、けっこう衝撃的でしたねぇ。低予算丸出しのアクション・シーン、物語構成のバランスの悪さ、大袈裟な音楽の使い方(これはイラン映画の特徴でもありますが)、中途半端なユーモア。監督自身の投獄生活を元にした半自伝的な作品で、体制にボイコットされた人達の敗北を描いたとても重苦しい題材を扱っているのですが、今ひとつその深刻さがダイレクトに伝わってきません。あるいは検閲を意識して意図的に娯楽要素を強めた結果なのかもしれませんが、結局それが本作をバランスの悪い中途半端なものにしてしまっているのだとしたら、これはもう不運というしかありませんねぇ。ただ、投獄された主人公が精神を病んで、悪夢や幻覚に悩まされるシーンはなかなか面白かったです。スプラッター映画のようなグロい特殊メイクを施された死体が出てきたり、鏡に映った主人公の顔に無数の蟻がうごめくショット(なんとアニメ処理!笑)もインパクト大でした。マジッド・マジディの大熱演(怪演?)も見所と言えば見所ですね。監督になったのは大正解だと思います(笑)。今やイラン映画界の巨匠とも言える作家の"若書き"ならぬ"若撮り"、いろんな意味で堪能しちゃいました。

『ボーイ・ミーツ・ガール』 レオス・カラックス/1983年・フランス


『暴走特急』 ジョフ・マーフィ/1995年・アメリカ


『ボウリング・フォー・コロンバイン』 マイケル・ムーア/2002年・アメリカ=カナダ

過剰な報道によって恐怖の念を増幅させていくマスコミと同じ方法を用いた映画によって銃社会アメリカへの批難の念を増幅させるべく仕向けるマイケル・ムーアの危ないドキュメンタリー。過激な毒を撒き散らす黒い笑い。暴力によって積み重ねられてきた「アメリカ民主主義」の近代史、その映像にはサッチモの「この素晴らしき世界」が被さり、兵器メーカー社員の力強い言葉は工廠内に掲げられたある一文で瞬時に矛盾と欺瞞の虚言となる。そしてアニメで描かれるアメリカ建国史のエゲツなさたるや!これはもう笑うに笑えない。最後はあのチャールトン・ヘストンを完璧な悪に仕立て上げてしまう。ヘストン邸の中へ堂々と歩を進めるマイケル・ムーアの後姿はまさにヒーローそのもの(これはその後に捉えられるヘストンの後姿と見事な対比になっている)。非常に恣意性の強いドキュメンタリーではあるけれど、本作が観る者に刷り込もうとする諸々の事柄は、とても有意義で痛快なものだった。それにしても、6歳の子が6歳の子を撃ち殺す世の中って・・・。先日、銃規制のある日本では小学生の少女が小学生の少女をカッターで切り殺す事件が起きてしまった。

『ボギー!俺も男だ』 ハーバート・ロス/1972年・アメリカ


『ぼくの伯父さん』 ジャック・タチ/1958年・フランス=伊

山の手と下町、父と息子、新しきものと古きもの。対立と融和、その脆く微妙な関係性。本作にはタチの平等の精神が強く反映されています。ユロ氏は物語をリードする主人公などではなく、かと言ってブルジョワ達のような極端に喜劇的な存在でも、空地や子供や犬といった二分化された世界を繋ぎ止める象徴的な存在でもありません。そのスタンスはどこまでも曖昧です。ユロ氏は作品世界の中の一住人(初登場の仕方も驚くほどさり気ない^^;)に過ぎなくて、笑いの見せ場はほとんどありません。と言うより登場するもの全てが何らかの喜劇性を持っているんですよね。この何とも不思議なスタイルが次の作品『プレイタイム』で「喜劇の民主主義」という形に結実します。途方もなく野心的な試みでありながら、見た目はとことん地味で控え目な、でも細部はキチガイじみているタチの喜劇、もうたまらなく好きですね。さて、『ぼくの伯父さん』の素晴らしくチャーミングな超モダン住宅のセットについても一言。とにかくユニークです。『建もの探訪』の渡辺篤史が見たら絶賛間違いなしでしょう(笑)。入口の扉、魚の噴水、庭の造形、イス、台所、丸窓、車庫、掃除機、ソファ、果ては植物に至るまで徹底的にデザイン化され、自動化された美術の数々。合理性を追求した結果、不合理極まりない状況を生んでしまうというアイロニーが実に愉快です。丸窓が目玉のように見える夜のシーンや、アパートの内部を移動するユロ氏を同一画面の中で見せるユーモラスなシーンなど視覚的な遊びもたっぷり。それと空地で揚げパンを売るオジサンが良いですね。パンの上に豪快に砂糖をまぶすシーンは、『タクシードライバー』でジョディ・フォスターがトーストの上にガンガン砂糖を降りかけるあの有名なシーンが重なって見えて思わず微笑んじゃいました。

『ぼくの伯父さんの休暇』 ジャック・タチ/1952年・フランス

何度観ても面白い!タチ作品の中でもとりわけお気に入りの一篇です。ユロ氏が巻き起こす徹底的に無自覚なトラブルメーカーっぷり。セリフを極力排した「動き」によるギャグは否が応にもチャップリンのサイレント映画を想起させますが、自ら積極的に笑わせるのではなくあくまでも受け身の姿勢から生みだされる笑い、長身でロングコートでヨレヨレ帽子でパイプをくわえるお茶目な挙動不審者ムッシュ・ユロの存在は、極めて特異な光彩を放っているんですよね。イノセントな笑いが徐々にエスカレートしていって遂には常軌を逸した過激な花火ギャグとなり、また冒頭と同じ穏やかな海辺の日常へと戻っていく構成も秀逸です。そして何と言っても素晴らしいのはタチならではのユニークな効果音の数々。そのパラノイア的とも言えるこだわり。極端な話、映像を消して音だけ聴いていても十分に楽しめてしまうのがタチの映画なんです。いちいち挙げていくとキリがないのですが、とりあえず一番のお気に入りはユロ氏がテニス・ラケットでボールを打った時の音でしょうか。とてつもなくヘンです(笑)。打つ前の意味不明なアクションも可笑しいんですよね。他にもユロ氏が乗るポンコツ車(でもエンジン音は凶暴!笑)とか、映画的な舞台装置として鮮やかにフィルムに定着された坂道とか、伸びるアイスのサスペンス感とか、『荒武者キートン』を思わせる真っ二つに折れる船とか、チャーミングな英国老婦人(タチの作品に出てくる英語を喋る女性は何故みんな良い人なのだろうか?)とか、バカンス・ムード漂うテーマ音楽とか、とにかくひたすら愛おしい映画です。

『ぼくの神さま』 ユレク・ボガエビッチ/2001年・アメリカ

ナチス占領下のポーランドが舞台のあまりに重く痛々しい児童映画。キリスト教圏と非キリスト教圏ではまったく見方、感じ方が異なってくる作品でしょうね。ハーレイ君は確かに演技達者だけれど、ちょっと無難すぎるというかクセが無さすぎかも。真に迫ってくるような迫力がどうも感じられない。

『僕の村は戦場だった』 アンドレイ・タルコフスキー/1962年・ソ連

タルコフスキーの長編デビュー作にしてベネチア金獅子賞に輝いた名作。否応なく戦争に巻き込まれ孤児となったイワン少年の非情なまでの現実を、幸福だった過去の想い出を随所に挿入しながら描いていきます。冒頭の白樺林での浮遊シーンや優しき母親のイメージ、少女(妹?)との戯れ・・・陰鬱な戦場の塹壕内において時折少年が夢想するこれら幻想的な映像が呆然とするほど美しい。それは現実の厳しさをより一層際立たせる残酷な美しさでもある。イワンを演じるニコライ・ブルリャーエフの表情が素晴らしいですね。敵を憎み、戦争を憎み、何よりも現実を憎む冷たい瞳の少年と、夢想シーンで子供らしく無邪気な笑顔を振りまく少年、そのコントラストはあまりにも痛く悲しい。タルコフスキーは戦場を描くのではなく戦争によって運命を変えられた少年の光と影、そのありのままの姿を見せる事で痛烈に戦争を批判したのだと思う。ラストシーンを眺めていてふとアフガニスタンで同じように不条理な現実に翻弄される子供達の姿を想起し心が重く沈みました。

『ぼくは歩いてゆく』 アボルファズル・ジャリリ /1998年・イラン

戸籍がないために学校へ行けず、仕事にも就けない少年の奮闘記。深刻さの中にほんのり滑稽さを含ませて描く「子供VS大人」というイラン映画ならではの対立構造が、社会的ルールの問題点を浮き彫りにしていく。あくまでも"ドキュメント風"だった物語が一瞬ドキュメンタリーそのものになってしまう、この虚構と現実の魔術的な混交は、キアロスタミやマフマルバフの作品でもお馴染みの演出だ。真実の映像を巧妙に潜り込ませる厳しい検閲制度に対する製作者の知恵。説明的な描写とセリフを極力省いて、物語性が失われるギリギリの線で踏み止まるようなストイックなショットの積み重ねも、あるいは単なる映画的な手法として捉えるだけでは済まされない屈折した要素を内包しているのかもしれない。最後に映し出される少年のアップショットの素晴らしさ。しかし、無邪気な笑顔の前には施設の格子が厳然と存在している。こういう作品を見てしまうと、今の映画には"制約"こそ必要なんじゃなかろうかと本気で思ってしまう。CGでどんな映像でも作れるようになった結果、映画はその本来持っていた豊かさを失い、決定的に映画ではない何か別のものになってしまったような気がする、なんて考えるのはあまりにもアナクロニズムな穿った見方だろうか。

『北北西に進路を取れ』 アルフレッド・ヒッチコック/1959年・アメリカ


『僕らはみんな生きている』 滝田洋二郎/1993年・日本

サラリーマンが出張先の外国でクーデターに巻き込まれるという災難をコメディタッチで描いた作品。ん〜今ひとつでした。どうせなら徹底的にナンセンスなコメディでいって欲しかったですね。途中のジャングル内でのサバイバルな展開まではイイ感じだったのですが、後半のヘンにドラマチックすぎる展開は正直ダルく感じられましたねぇ(ただ真田広之がサラリーマンの本音をぶちまける最後のシーンは哀れで切なかった)。印象的だったのは支店長役の山崎努。いやいや、胡散臭いオヤジをやらせたら天下一品ですな(笑)。岸部一徳はオーバーアクトがちょっと鼻に付きましたね。ちなみに支店長の運転手で実はゲリラの一員という現地人セーナ。原作だと魅力的な女ゲリラなんだそうですが、何でわざわざ男にしちゃったんでしょうか。結構重要なキャラだけに、映画も原作通り女性にして欲しかった。それだけでも作品の印象がガラッと変わったかもしれません。

『ほしのこえ』 新海誠/2002年・日本

この作品を遠心分離機にかけると、小さな本体の傍らに『トップをねらえ!』と『新世紀エヴァンゲリオン』という大きな塊が現れます(笑)。確かに映像は綺麗なのですが、ただ綺麗なだけで、瞠目するような独創性というものはほとんど感じられません。携帯とメールによって意思の相互伝達が容易になった現代を逆手に取ったSFプラトニック・ラブなのですが、主役である男女の言葉のやりとりがあまりにも稚拙なので、感情移入することができません。凝った世界観や設定も25分という尺では抽象的にならざるを得ません。戦闘シーンの演出も何かリズムに違和感があって格好悪いです。声優の演技も苦しいですし、音楽も聴こえは良いのですが平板な印象を受けます。唯一、背景は美しく魅力的でした。これを一人で製作した新海誠氏のエネルギーは敬服に値しますが、やはり全編から滲み出る素人臭さはいかんともしがたいですねぇ。この作品に5,800円の価値があるかと言えばちょっと、いや、かなり疑問です。CGを描く能力と、それを動かす能力(これは演出力と言い換えても良いです)は全く別物なんだということが改めて良く分かる作品でした。CGアニメの無機質な感じはどうも好きになれません。余談ですが、宮崎駿は養老孟司との対談の中で「デジタルの絵は綺麗だけど、止まった絵はただの死んだ絵」と語っています。さすが巨匠、良いことを言うなぁ。それとこの作品はPC鑑賞が最適ですね。大きな画面だと途端にボロが出ます。ん〜何だか悪口だらけの感想になってしまいました。でも正直な気持ちであることは間違いありません。

『火垂るの墓』 高畑勲/1988年・日本

約60年の昔、ここ日本に確かに存在していた美しき人々、風土の姿。日本人って今や全く別の異なる民族になってしまったんですねぇ。でもやっぱり清太の行動には同情しつつも歯痒いものを感じる。節子が衰弱してきてもなお意地を張って叔母の家へ戻ろうとしない清太の我侭なプライドが、遂には節子を死なせてしまったんじゃないか、と思うと何ともやり切れない気持ちになるのだ。とにかくあまりにも美しくあまりにも哀しい物語ですね。節子を演じる白石綾乃が圧倒的に素晴らしい。

『鉄道員(ぽっぽや)』 降旗康男/1999年・日本


『ボディガード(92年版)』 ミック・ジャクソン/1992年・アメリカ


『ホテル・ニューハンプシャー』 トニー・リチャードソン/1984年・アメリカ

セックスと暴力と愛と死に彩られた黒い童話。清濁併せ呑むような世界は魅力的なんですが、濁が強すぎるせいか全体のバランスはどうもチグハグした印象。確かに各キャラクターの無邪気に病んでいるというか、飄々とした明るさが作品の暗さを緩和してはいるのですが、数々の出来事から生じる不快感を相殺するほどの効果はないんですよねぇ。愛犬の剥製とか、入れ歯の黒人娘とか、そういう感覚はわりと好きなんだけど(笑)。それとストーリー構成がちょっと雑な気がします。語り口がギクシャクしているので、大団円の感動的な幻想シーンも何か取って付けたような違和感を感じてしまいました。実を言うと、演出やキャメラにも不満タラタラだったりするのですが(^^; トニー・リチャードソンとは相性が悪いのかもしれません。ジョディ・フォスターとロブ・ロウは良いですね。

『ホテル・ハイビスカス』 中江裕司/2002年・日本

沖縄の色彩と太陽のもと、底抜けに明るくて大らかでお茶目な人間群像がエネルギッシュに炸裂する!ヒロインの子役・蔵下穂波が全身これ元気の塊という快演を見せれば、個性ありまくりの脇役たちも負けてたまるかと大熱演。中でも父ちゃん演じる照屋政雄は最高。とびっきりの笑顔を持ったキュートな禿オヤジ。終始ニコニコ。だからこそ「人に石を投げるな。それが大きくなって戦争になるんじゃないか!」の一喝が心に刺さる。前作『ナビィの恋』の出演者もあちらこちらに顔を出しちゃうアットホームさが、そのまま映画の温もりとなって画面中に充ち溢れ、観ている方まですっかりほのぼの良い気分にさせられてしまう。三味線と泡盛と青い海と空、あぁ沖縄が呼んでいるぅぅ!

『ポネット』 ジャック・ドワイヨン/1996年・フランス


『炎のランナー』 ヒュー・ハドソン/1981年・イギリス


『ホーホケキョ・となりの山田くん』 高畑勲/1999年・日本

とある家族の日常をユーモラスに描いたアニメで、水彩画タッチの絵と漫画のテイストをそのまま動画にしたような不思議な味わいが斬新です。話の内容は終始一貫まったりほのぼの。言うなれば「サザエさん」スタイルに派手な音響効果と演出を加えたような感じでしょうか。クスリ系のギャグと身近な小エピソードの数々は微笑ましくてホッとするのですが、いかんせんちょっと地味過ぎるのがツライところですね。技術的に凄いことをしているそうなのですが、これなら普通のTV映画として製作していた方が良かったかもしれません。あと尺もちょっと長すぎるような気がします。ただ最後の藤原学級からケセラセラの大合唱へ移行するところでのダイナミックな描写、幸福感に溢れた映像はジブリ作品らしい名場面でした。矢野顕子さんによる歌と声も実に心地良かったです。

『ホームワーク』 アッバス・キアロスタミ/1989年・イラン

映画は終始子供達のアップショットとそれを収めるキャメラのアップショットの切り返しだけで構成されています。そして同じ質問を繰り返す監督に返って来る子供達の答えはどれも一貫して同じ(そこからイランはほとんどの親が教育を受けておらず、執拗に体罰を行なう傾向がある事が判ってくる)。そして恐ろしいのは子供の中に罰の意味は知っていても褒美の意味を知らない子がいるという事実です。顔にアザや傷跡がある子供、暗い表情をした子供・・・映像は淡々とそして残酷にイランの教育における歪みを映し出していきます。そしてそれが最も強烈に示されるのがラストの子供です。目の焦点が合わず、明らかに怯えているその少年は元々悪戯っ子でしたが、勉強が出来ないせいもあって毎日のように先生に怒られては体罰を受けてました。その為すっかり恐怖心の固まりになってしまい授業中泣き出す事すらあるという・・・。体を揺らしながらブツブツ喋る様は精神病の兆候すら感じさせ、そのあまりの痛々しさに見ているのが辛いくらいでした。が、驚くべきは最後の場面。少年が宗教詩の1篇をそれまでの様子が嘘みたいに堂々と自信に満ちた表情で暗唱し出すのです。物哀しいメロディーが流れてきて突然静止画になるとそのままエンドクレジット。宗教の影響力、恐ろしさをまざまざと映し出す背筋の凍るようなラストでした。

『ポーラX』 レオス・カラックス/1999年・フランス=スイス=独=日


『ポリスアカデミー』 ヒュー・ウィルソン/1984年・アメリカ


『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』 アナンド・タッカー/1998年・イギリス

実在した名チェリスト・ジャクリーヌ・デュ・プレの知られざる実像を姉ヒラリーの著書を元に描いた伝記映画です。欧米では公開前にストが起きたというだけあってかなり衝撃的な描写もありましたが、予想以上に見応えのある内容で楽しめました。ただ同じ音楽家を題材にした『シャイン』が独特のユーモア感覚で笑いと涙を誘ったのに対し、こちらは終始ハードな人間悲劇を見せていきます。成功したが故に味わう孤独と葛藤、そして突如襲う病魔・・・。後半での彼女の痛々しい姿は正直観ていて辛かったですねぇ。天才と言われた人々は往々にしてその才能と控えに多くの代償を支払い、個人としての幸福をあまり得られないケースがありますが、後世にその名を残す事と平凡で穏やかな一生を送るのとでは一体どちらが幸せなんでしょうか・・・。

『ポンヌフの恋人』 レオス・カラックス/1991年・フランス


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