映画古今東西
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『イヴの総て』 ジョセフ・L・マンキウィッツ /1950年・アメリカ

芸能界の内幕を描いたいわゆるバックステージものの名作なんですが・・・いや〜これは良かった!話の構成といい語り口の巧さといい文句無しの面白さ。謙虚さの中に強い野心を秘めた女イヴと大女優マーゴとの緊張感溢れる女の闘いは見応え十分。マーゴ役のベティ・デイビスの迫力も凄かったですが、イヴを演じたアン・バクスターの清潔で屈託のない笑顔の裏側に潜む得体の知れない冷たさが実に恐かったですね。それとラストシーンの鮮やかなミラー・ショット!イヴは無数に存在する・・・恐いですね〜圧巻ですね〜(淀長さん風)。ちなみに無名時代のマリリン・モンローがオバカな若手女優の役でちょっとだけ顔を出しています。

『錨を上げて』 ジョージ・シドニー/1945年・アメリカ

運動会でもお馴染みのマーチ「Anchors Aweigh」のオープニングに始まり、ジーン・ケリーのタップダンスとフランク・シナトラの歌がこれでもかってくらいに披露されていきます。ストーリーも男2人女1人が織り成す恋模様を軸に楽しく愉快に展開していく王道パターン。この何とも言えない幸福感はハリウッド・ミュージカルならでは!「トムとジェリー」のジェリーがジーン・ケリーと一緒にダンスする場面もラブリーです。合成シーンこそやや古臭く感じてしまいますが、その見事にシンクロした2人の動きは感動せずにはいられません。それにしてもジーン・ケリーの踊りはホント芸術的ですね。マッチョな肉体なのに驚くほどの軽やかさ!まるで宙に浮いているかのようです(いや本気で)。139分とやや長尺ですが、長さを感じさせない極上の娯楽作品でした。

『生きものの記録』 黒澤明/1955年・日本

反核をテーマにした寓話性の強いドラマ。三船敏郎がすごい老けメイクで被害妄想にとりつかれた家父長をエネルギッシュに演じている。第五福竜丸に想を得て撮られたそうだが、北朝鮮の脅威に晒されている今の日本の状況を考えると、かなり今日的な作品と言えるのかもしれない。廊下に横並びで座る家族の面々や、室内における家族会議など、随所でパン・フォーカスが効果的に使われている。主な舞台となる工場のセットも素晴らしい。それにしても黒澤明の演出はバタ臭いなぁ。

『生きる』 黒澤明/1952年・日本

極端にカリカチュアライズされた人物が織り成す、後半の通夜シーンが抜群に面白い。十人十色の人間模様が、ユーモラスに、ときに辛辣な皮肉も交えながらテンポよく展開されていく。ひときわ異彩を放つのが左ト全。セリフは少ないけれど、その存在感は絶大。本物の酒が入っているとしか思えない演技には脱帽(笑)。大胆な構成、映像の力強さ、あまりにも過剰な演出。黒澤映画は病人が主人公の人間ドラマでも、動物性タンパクのように濃厚でガツンとくる味わいがある。伊藤雄之助の異相、甘味物をがっつく小田切みきのパワフルな笑顔(ギョロリ剥いた目!)も忘れ難い。

『活きる』 張芸謀/1994年・中国

40〜60年代という近代中国激動の時代を一家族の生き様を通して描いたヒューマンドラマです。ん〜観終った後、大きく深呼吸せずにはいられない作品ですねぇこれは。中国の家族のほとんどがこの激烈な時代の波に否応なく巻き込まれ耐え抜いて現在に至っている、という事実にまず圧倒されます。本作は内戦、大躍進、文革といった政治的要素があまり前面には出てこず、あくまで庶民の目線から当時の中国を描いている点が特徴なのですが、社会の劇的な変化に逆らうどころかすんなりと順応し強固に結束していく中国人民の強さ、逞しさ、そして何よりもその単純さにただ驚かされるばかりでした。単純とは言ってもあらゆる複雑さを通り越してきた単純さ、窺い知れぬ複屈折を含んだ単純さ、と言う意味でもあるのですが・・・。中国という国の途方もない大きさ、底知れぬ深さを感じさせつつ、ドラマティックで娯楽性があり視覚的(影絵が実に美しい)にも鮮やかな普遍的ホームドラマに仕上げたチャン・イーモウの力量はさすがの一言に尽きると思います。『グリーンマイル』を観たスピルバーグじゃないですが劇中4回も泣かされましたし(笑)。そして俳優たちの見事な演技と存在感。コン・リーの熱演もさることながら、その夫を演じるグォ・ヨウが呆れるほど巧いです。絶品!それと聾唖の娘を3つの年代別に演じた3人の子役も良かったですね。特に最初の少女が見せる笑顔、これには参りました。最近観た子役の中ではピカイチの衝撃度。もの凄いインパクトのある表情でした。

『居酒屋』 ルネ・クレマン/1956年・フランス

パリの下町を舞台に貧しくも逞しく生きる女性の姿をリアリズム溢れる描写で綴った人間ドラマです。庶民の風俗や生活の様子を生々しく映し出した映像が迫力ありましたね(特に冒頭の共同洗濯場でのシーンは素晴らしい!)。クレマン監督と言えば「禁じられた遊び」と「太陽がいっぱい」が有名で、どちらも見事なラストシーンが印象に残りますが、本作の最後も実に象徴的で味のある締めくくり方でした。

『イージー・ライダー』


『異人たちとの夏』


『イタリア旅行』 


『一番美しく』 黒澤明/1944年・日本

一途な自己犠牲による国への献身を賛美したプロパガンダ映画。軍国主義下という抑圧の中に生きる女子工員たちの姿は、ある種の純粋ひたむきな美しさに満ちているが、そこには国家が押し付ける「個人を超越した崇高なる精神」というまやかしの鏡によって映し出された歪んだ世界があることも、また確かなのである。不安定な工員の生産力が、一人の傑出した少女と、人格者しかいない大人たちによって、見事一致団結し増産目標を達成するというストーリーには、あからさまに失われた真実と、非人間的な冷たさしか感じられない。しかし、第三者的な立場から客観視する、ということなどできる筈がない当時の人々は、本作をどのような気持ちで受け止めたのだろうか・・・。作業する少女たちをアップショットで次々に映し出していくシーンや、音楽行進を俯瞰ぎみに捉えたシーンなど、ドキュメンタリーのように力強くて美しい映像には思わずハッとさせられた。

『偽りの晩餐』 エルマンノ・オルミ/1987年・イタリア

不気味な静謐さを漂わした映画。上流階級の人間たちによる晩餐会、そこにやってくる面々は変わり者ばかり。やたらマナーが悪い中年紳士、ゲテモノ料理を嬉々とした表情で食べるアジア系夫婦、少年に色目を使う婦人、変なクセを持つ老紳士、寂しそうな表情の少女など、実に多種多彩である。主催者の老婦人に至っては一言も発さず只ひたすら辺りをオペラグラスで観察してるだけだ。そんな奇妙な人々によって淡々と静かに晩餐会は進んでいくが、やがてその様子をじっと眺める1人の少年給仕が場の異様な雰囲気から次第に疑心暗鬼になっていく。そのサスペンスフルな展開が本作の言わば核となる部分だ。ただそこには何ら解答が存在するわけではなく物語が進行すればするほど深い迷宮に迷い込むような感覚にさせられてしまう。ブルジョワジー達の醜悪さを描いていくと同時に非現実的な時間と空間を感じさせる悪夢的な映画だった。

『E.T.』 


『愛しのタチアナ』 アキ・カウリスマキ/1994年・フィンランド

めちゃくちゃ愛らしいたった60分のロードムービー。めちゃくちゃ寡黙で盛り上がらないボーイ・ミーツ・ガール。めちゃくちゃ格好良い(?)マッティー・ペロンパー。アル中のチャップリンとでも言っておこう。「俺はタチアナと一緒になる、作家になる」ああ〜泣ける、そして笑える。カティ・オウティネンも最高にチャーミング。ファッションとカメラが何とも良い感じ。何度でも味わいたい映画だ。

『犬神家の一族』


『犬の生活』 チャールズ・チャップリン/1918年・アメリカ

冒頭の壁一枚挟んだ警官とのやり取りには大笑い!軽快なテーマ音楽もグ〜。チャップリンのみならず犬の動きも凄いです(どうやって演出したのか知りたいくらい)。

『イノセンス』 押井守/2004年・日本

人間とアンドロイドの境界が限りなく曖昧になった世界を描くことで「魂とは?」、「生命とは?」という答えなき問いへの接近を試みている点では前作と同じ。ただ、前作が"自己"に重きを置いた精神的なアプローチだったのに対して、本作では"機械の体"という物質的なアプローチによって人間存在の本質に迫ろうとしている。これを見ても前作と本作が一対の関係にあることが良く分かる。"人形"というモチーフを使うことで、人間とアンドロイドの関係性がより鮮明に浮き彫りになっているのだ。また、バトーの言動が前作の草薙素子と酷似している点も面白い。それによって、素子は人としての殻を脱ぎ捨て、バトーは人であろうとすることを望んだ、という異なった帰結がより一層強調されることになる。また、超人≒人間という図式の象徴として捉えてみれば、二人は合わせ鏡のような存在と言えるのかもしれない。表裏一体なればこそ合一願望によって生じる"愛"は存在し得なくなる。だとすれば最後の素子の言葉は果たして"愛"と呼べるものだろうか。否だと思う。寧ろ、あの言葉によって"愛"を超えた、或いは"愛"という概念を必要としない関係を示唆したと解釈するべきだろう。超人である素子にしてみればそれで良いのだろうが、果たして人であろうとするバトーはそれを容認できたのだろうか、それとも・・・。この無残な愛の敗北は『パトレイバー』の後藤と南雲の関係を想起させて何とも切なかった。さて、ちょっと話が観念的すぎるので作品の表層部分についての印象を語りたいと思う。まず何よりも圧巻だったのは、キムの館のシークエンスだ。過剰な装飾性と技巧を凝らした美術やギミックやトリック、その悪趣味とも言える混交はマニエリスム様式の影響が色濃く感じられる。本作のグロテスク、エロティシズム、人形、だまし絵的な細密映像、シュールレアリスム感覚と言った要素がすべてマニエリスムの範疇に含まれているのは興味深い事実である。また、擬似現実が創り出す同一シーンの反復によって「自己と存在」に関する膨大なセリフを一気に語らせてしまうところなどは如何にも押井守らしい力技の演出でニヤリとさせられた。また、未来都市の情景も前作のようなジメッとした陰鬱感とは違い、無機的な幾何学模様のデザインが中心になっているのが特徴。ちなみに中国風の武人が行進するシーンは「巨神兵」の火の七日間を彷彿させた(そう言えば押井が担当したパトのエピソードに「火の七日間」というのがある笑)。それと忘れてはいけないのがガイノイドというアンドロイドの存在。グロテスクで、エロティックで、儚げで、独特の雰囲気を感じさせる造形。後半のアクション・シーンでわらわら登場するが、動きがかなり不気味で、どことなく可笑しくもあった。物語ではほとんど触れられることはないが、この人形がセクサロイドと呼ばれる性的愛玩物に使われている点も非常に興味を引く。本当はこの部分をもっと掘り下げて欲しかったのだが、それをやるとジブリが慌てることは言うまでもない(笑)。そして音楽。前作のテーマ曲をマイナーチェンジしただけという感じは否めないが、それだけ完成度が高かったということなのだろう。二つで一つの作品、世界観の統一という面から考えるとこれはこれで良いのだと思う。「フォロー・ミー」は既存の曲でありながら、この作品の為に書いたとしか思えない歌詞の内容に驚かされた。楽曲自体も心に沁みる。ただ、あまりにも情緒的な響きが本作のドライな作風(と自分は感じた)に合っていないような気も少なからず感じられた。バトーと素子の関係に情緒的な、つまりウェットなものを強く感じ取った人にとって最良の曲であることは間違いないと思う。これを最後に聴かせることによって、混乱している観客の情感を巧みに操作しようとする某プロデューサーの巧緻な策謀もチラチラと(笑)。本作のもう一つの特徴として、キャラクターがやたらとアフォリズム(箴言)を引用するということが挙げられる。これは押井守が好んで用いてきた演出だが、今回はちょっと度を越しているというか、ほとんど引用ずくしと言っても良いくらいに徹底されている。これは普通に考えれば不自然だけれど、外部記憶装置(TV版ではかなり詳細に言及されている)が存在する攻殻の世界にあっては至極当たり前のことなのである。ある意味、電脳社会におけるトレンディな会話形態の一つである、という言い方もできるかもしれない。勿論、検索すれば容易に情報が得られてしまう現代のネット社会に対する諷刺になっていることも確かだ。だからセリフが難解過ぎるだとか、スノッブだとか言う以前に、こういう会話が当たり前になってしまっている世界の滑稽さを笑うくらいの心のゆとりがあっても良いんじゃないだろうか。優れた小説や芸術作品というものはみな高度な抽象性を持っているものだ。既知のことを再認するだけではなく、未知のことを理解し、まったく新しい世界に挑戦することこそ本当に知的な楽しみ方と言える。観客に親切な作品ばかりがもてはやされる昨今にあって、観る人が自分の想像力、直観力、知識を限界まで総動員して、自分だけの解釈へと至るというような深みを持った思考的映画の存在は貴重だと思う。だから見てくれだけの中身スカスカ映画だと貶す人は、恐らく限界まで思考するのを途中で放棄したか、或いはそこまで思考するまでもないと早々に見切りを付けているだけなのだろう。それでは単なる中傷に過ぎない。つまり、あくまで個人の嗜好、見解なのであって、作品の質とは何ら関係がないのである。それを自覚することなくただ批判ばかりする人は信用できないし幼稚である。抽象的だからダメなのではなく、抽象的だからこそ面白い、という認識こそ健全な芸術の受け止め方ではないだろうか。「読書百篇、意おのずから通ず」ではないけれど、DVDが出たらじっくりと吟味してみたい作品です。やっぱり日本映画で今最もパワフルなのはアニメなのかもしれません。いや〜何やらエラくまとまりのない、文の垂れ流しになってしまいましたが、取り合えず『イノセンス』を観て、あれこれ感じた事を書き連ねてみました。考えが巧くまとまらない内に書いてしまったので、非常に読み辛かったとは思いますが平にご容赦下さいませ。

『異邦人』 ルキノ・ヴィスコンティ/1968年・イタリア=仏

観終わった後の率直な感想は「可もなく不可もなく」と言った感じでしょうか。原作を忠実に再現してはいるのですが、どうも映画としての旨味が薄いと言うか、ヴィスコンティにしては映像や演出が力強さに欠けているような気がしましたね。主人公ムルソーが太陽のせいで殺人を犯すシーンのインパクトが弱いですし、最後でムルソーが自己の実存を獲得するシーンも今ひとつ心に迫ってきません。やはり原作の不条理と実存哲学という思想はあまりにも観念的すぎる主題なので、それを映像で表現するのは無謀な試みだったのかもしれません。でも、感情移入できなかった決定的な要因は、ムルソー役のM・マストロヤンニが原作のイメージに合っていなかったという点です。まず第一に身体が太すぎる!(泣)。海水浴のシーンでは目が点になりました(水着の似合わなさも衝撃的!笑)。青年ムルソーというよりは明らかに中年ムルソーという肥えっぷり、その鈍重さ。表情も少し優しすぎるような気がしました。当時、既に40を越えていたマストロヤンニを起用したのは、原作に対する敬意とカミュの遺族への手前、若手や新人を使うリスクを避けたということなのでしょうか。恋人マリイ役のアンナ・カリーナとの組み合わせもちょっと違和感がありましたねぇ。彼女自体は良かっただけに残念です。不思議な魅力を放つカマトト顔。『白夜』のマリア・シェルには寒気が走りましたが、本作のアンナ・カリーナには萌えました(笑)。裁判シークエンスで信仰賛美の熱弁を振るう判事の尊大さ、神の存在をとうとうと説く司祭の無力さといった描写には、宗教に対する厳しい皮肉が効いています。この辺りは「赤い貴族」と呼ばれたヴィスコンティの面目躍如たる演出でしたね。

『イマジン ジョン・レノン』 


『今のままでいて』 アルベルト・ラトゥアーダ/1978年・イタリア=スペイン=米

原題は『ナスターシャ・キンスキー』・・・なわけありませんが、それくらい彼女の魅力が全面に押し出されている作品です。あのマストロヤンニでさえも刺身のツマ程度の扱いなのだから恐れ入ります。近親相姦を匂わせるロリータ・ロマンスですが、細かい心理描写はなく、脚本もやや大雑把なので、尚更ナスターシャ嬢だけが印象に残るという仕掛けです。これならヌードがやたらと出てくるのも当然と言えるでしょう。ただ凡庸に終わらないのが、ラットゥアーダ監督のお茶目なところで、後半に見せるナスターシャ嬢の常軌を逸した痴態ぶりは、可愛いを通り越して怖いです(笑)。エンニオ・モリコーネの音楽は、合っているような合っていないような微妙な感じを受けました。楽曲自体は良いのですが。それと話の筋とは全然関係ありませんが、競馬場の馬券オヤジとバーで煙草を無心する浮浪者(特典によると監督自身が演じていたらしい)が妙に味があって忘れ難いです。

『イル・ポスティーノ』


『イルマーレ』 イ・ヒョンスン/2001年・韓国

時間を超えて文通する男女の心の交錯を描いた切ないSFロマンス。映像、セット、音楽、何もかもがファッショナブルに演出されていて、まるでトレンディ・ドラマのような体裁。いくら御伽噺とは言え生活臭皆無の室内にはゲンナリ。でもプロットはユニークで面白かった(かなり混乱したけど笑)。

『イングリッシュ・ペイシェント』


『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』


『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』


『インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険〜ハリウッドの愚者たち〜』 マイケル・シュルツ/1994年・アメリカ

いきなりサイレント版「ベン・ハー」を鑑賞するインディのシーンから始まる本作。いわゆるバックステージものなんですが、時代背景がハリウッド黎明期だけあって出てくる人物が皆すごい。「愚かなる妻」製作中のシュトロハイム(牛の血を飲んだり、自宅のプール脇でコーラス団が唄ってたり、サイレントなのに発音が良いと欧州から貴族を招いたり、と縦横無尽の変人ぶりを発揮してます笑)や、まだ駆け出しだった頃のジョン・フォード、グロリア・スワンソンもちょこっと出てきます。金食い虫のシュトロハイムにあの手この手で映画を完成させようとするインディの奮闘ぶり、脚本家の卵とのロマンス、フォード作品への緊急出演など、かなりベタではありますが見所満載の好作品に仕上ってます。TV映画なので映像的にも演出的にもチープ感ありありなのは否めませんがなかなか楽しめました。

『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』


『インデペンデンス・デイ』 


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