映画古今東西
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『ニキータ』 リュック・べッソン/1990年・フランス


『肉弾』 岡本喜八/1968年・日本


『肉弾鬼中隊』 ジョン・フォード/1934年・アメリカ

邦題は大嘘(笑)。狙撃兵によって砂漠のオアシスに閉じ込められた中隊が壊滅していく様を描いた中篇。尺の関係なのか脚本が大雑把、演出も妙にアッサリしていて、狙撃される恐怖感とか、徐々に追い詰められていく緊迫感に全く欠けているのが残念。フォードらしい躍動感や詩情性もなく平凡な作品というのが正直な印象かも。ボリス・カーロフ扮する強面の兵士が発狂し、十字架のような杖をついて脱走するシーンが唯一良かった。砂漠の只中で、姿の見えないアラブ人狙撃兵に怯える白人部隊という図式は、何となく現在のイラク駐屯米軍とテロ組織の関係を想起させなくもない。兵士が一人また一人と死んでいく展開や、ズラッと横に並んだ剣の墓標に悲壮感漂うラッパの音が被さるラストは『七人の侍』に強い影響を与えていると思う。黒澤明はフォードが大好き。

『日曜日のピュ』 ダニエル・ベルイマン/1992年・スウェーデン

スウェーデンの美しい景色をふんだんに映し出しながら展開するある家庭の悲喜交々を少年ピュの視点から淡々と綴った作品です。北欧映画特有の素朴で瑞々しい感覚とちょっとした「性」の香りが遺憾無く発揮されている佳作でしたね。少年が主人公だと往々にして母親との関係に重きが置かれるのですが、本作では父子の触れ合いが中心に描かれています。この作品はイングマル・ベルイマンの幼年時代が下敷きになっていて、それを息子のダニエルが監督しています。つまり劇中の父子はイングマルとその父であり、ダニエルとイングマルでもあるんですね。後半自転車に乗って2人が旅をします。この場面の何とも言えない幸福感、激しい稲光の中、馬屋で雨をしのぐシーンは美しく詩情に溢れています。ラストのちょっとしたハプニングから清々しい親子愛へ繋がっていくシーンも素晴らしかったです。「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」の美少女メリンダ・キンナマンの意外な怪演にはビックリでしたねぇ(盲目の女性という設定を知らなかったら気が付かなかったかも^^;)。

『ニックス・ムービー/水上の稲妻』 ニコラス・レイ、ヴィム・ヴェンダース/1980年・ドイツ=スウェーデン

最後、病院のベッドに横たわるヴェンダース、それを見舞うニコラス・レイ。両者の立場が逆転(しかし、何も変わってはいない)して"映画を撮る"行為の本質が露呈するやりとりには背筋が凍るような戦慄が走る。呻き声と咳払い。「Cut!」と「Don't Cut!」。ニコラス・レイの映画と演技と人生。

『日本の一番長い日』 岡本喜八/1967年・日本


『ニュー・シネマ・パラダイス』 ジュゼッペ・トルナトーレ/1988年・イタリア=仏


『NY市長ジュリアーニ 怒涛の日々』 ロバート・ドーンヘルム/2003年・アメリカ

さすがアメリカ。卒のない政治ドラマに仕上がっている。ジュリアーニの半生と悪夢の9・11をカットバックで小気味よく描き出す。ジェームズ・ウッズも余裕シャクシャクの演技。巧い。額の存在感がナイス(笑)。市長としての活躍よりも人間ジュリアーニに焦点を当てているところが良かった。

『ニューヨーク・ストーリー』 マーティン・スコセッシ、フランシス・F・コッポラ、ウディ・アレン/1989年・アメリカ

3篇のオムニバス。ウディ・アレンの最終話が図抜けて面白い。マザコン男が母親に振り回されるライトな不条理コメディで、ユダヤ系ニューヨーカーならではのギャグが満載。アレンの自虐ネタは陰に篭らず、開けっ広げで、スマートに描いているところが好きだ。ちょっとシツコイけれど(笑)。

『人間は何を食べてきたか 第1巻』 1985年・日本

世界中の食文化を追ったドキュメンタリー。最も基本的な食物を紹介していく序章的なドキュメント「NHK特集 食のルーツ・5万キロの旅」、そして本章である「肉」と「パン」の2編が収録された見応えのある構成になっています。一番興味を引き、かつ鮮烈な印象が残ったのは、ドイツのとある農家で行われる豚の屠殺〜解体作業を詳細に捉えた映像です。TVで見るマグロの解体には技術に対する感動以外のものは感じませんが、豚の解体では何か後ろめたいような残酷なような複雑な気分になりました。今では当たり前のように獣肉を食べる日本人ですが、昔の「薬喰い」などと称して陰でこそこそ細々とやっていた時代の残滓がこのような感情を起こさせるのかもしれません。それに豚の内臓はどうしたって人間の内臓を連想させます(笑)。確固たる肉食文化を持つ民族とそうでない民族の感覚の相違なのでしょうか。マグロの解体を見ても残酷だとは思いませんからね。それにしても、解体職人の手際の良さ、見事な包丁さばきには、思わず唸っちゃいました。スゴッ。

『人間は何を食べてきたか 第2巻』 1985年・日本

今回は「乳製品」「ジャガイモ」「米」の3編。いずれも見応えのある面白い内容でした。中東ベドウィン族の石のように硬いチーズ(10年も保存がきく)。富士山の八合目よりも高い標高に暮らすアンデスの先住民(4,000m以上の高地であろうと北極圏であろうと栽培できる偉大なるジャガイモ)。日本民族の祖にして兄弟のひとつであろうタイ北部に住む少数民族・アカ族の米食文化(正月にはお餅や赤飯のようなものを食す。さらに一人あたりの年間米消費量は日本人の何と5倍!)。このアカ族の少女達が着ている民族衣装が、『もののけ姫』の冒頭に登場するエミシの村の少女達の衣装にそっくりだったのが興味深かったですね。特典の座談会の中で、「このシリーズは本当に大好きで何回も見ました」と語っていた宮崎監督。デザインの参考にした可能性は大いにありそうです。

『人間は何を食べてきたか 第3巻』 1990年・日本

新シリーズ「アジア・豊かなる食の世界(1)」がスタート。今回は「麺」「カレー」「タロイモ・ヤムイモ」の3編です。麺発祥の地といわれる中国・北西部の雑穀を使った麺作り(土地が貧しく、水が貴重なために小麦の麺は年に数回しか食べられない)。豊かなスパイスに彩られたカレーの世界(インドという国の複雑さは食文化にも見事に反映されている)。台湾南方の島に住む少数民族・ヤミ族の水田によるイモ栽培。この水田風景は日本の田圃そっくりで、かつて稲作が根付く前に日本でも同じようなイモ栽培が行われていたことを偲ばせます。その根拠として、日本の各地に今も受け継がれているイモを祀る儀式の映像が紹介されていきます。パプアニューギニアの先住民のヤムイモを使った祭りの様子も興味深かったですね。イモに豚の肉を挟んで、地中で蒸した特別料理がすごく美味しそうでした(それを食べる先住民の人たちの表情が、また何とも素晴らしいんです)。こういうのを見てしまうと、今の自分は食ベ物に対する感謝の念や、食べることの純粋な喜びを忘れてしまっているのかなぁと思えてなりません。単純に食欲を満たしているだけなんですよね。

『人間は何を食べてきたか 第4巻』 1990年・日本

前巻に続いて「アジア・豊かなる食の世界(1)」。今回は「茶」と「醤油」。お茶発祥の地とされる中国・雲南省の少数民族の村(お茶は特産品なので村人は特別な日以外は喫茶をしない)。そこには樹齢800年のお茶の樹が、慎ましくも堂々と存在しています。タイの食茶の習慣や、ウイグル自治区の団茶など、日本とは全く異なるお茶の文化が紹介されていて非常に興味深かったです。いずれのお茶も塩分が高いのが特徴で、日々の労働の過酷さが窺い知れます。醤油は、日本でもお馴染みの穀醤ではなく、東南アジアが主流の魚から作る魚醤にスポットを当てています。魚醤発祥の地とされるタイ東北部の村。塩害のために稲作もままならず、魚の漁獲量も限られている、という厳しい環境だったからこそ生まれた魚醤の技術、人間のなんと逞しく、したたかな適応能力。

『人間は何を食べてきたか 第5巻』 1992年・日本

今回から新シリーズ「海と川の狩人たち」がスタート。海編2本を収録。まず1本目は400年もの間「生存捕鯨」によって暮らしてきたインドネシア・ロンバタ島の漁民たち。いや〜強烈!今までで最もインパクトのある内容でした。1,000m以上の深い海に囲まれた島なので、小魚がほとんど獲れず、鯨はまさに人々の生命を繋ぐ貴重なタンパク源になっています。「ラマファー」と呼ばれる勇敢なモリ突きが、巨大なマッコウ鯨に向って海へ飛び込む姿は、ロングショットながらも迫力満点。しかし、その一方で、捕鯨中に片腕を失った老人や、内臓に傷を負った漁夫を100キロ離れた島の病院へ運ぶ様子も捉えられ、彼らの捕鯨がまさに己の命と村人の生活を懸けた「神聖な闘い」であることが伝わってきます。外界から隔絶された、ある種神話的な雰囲気すら感じさせる世界ですが、しっかりキリスト教が伝播し、根付いているのには驚かされました。と同時に、アニミズムも当然ながら存在していて、不漁時期が続くと「山の民」の長老に鯨乞いの祈祷をしてもらうシーンが出てきます。圧巻だったのは、獲った鯨を漁夫が総出で解体する映像。前に見た豚の解体シーンが霞んでしまうほど凄まじいものでした。全身血で真っ赤に染まりながら、超巨大な心臓や肝臓を嬉々とした表情で取り出す男達を見ていて思わずクラクラっときましたね(笑)。血液や皮下脂肪(厚さ20cm!)や骨、果ては脳油と呼ばれる頭部の液体まで、すべてを取り尽す壮絶な解体作業が終わった後、残ったものは頭骨(ちゃんと軟骨の部分はくり貫く^^;)だけでした。こういうのを見てしまうと、グルメなんて何だかやましいだけのものに思えてきちゃいますねぇ。2本目はパプア・ニューギニアのマンドック島。見事な珊瑚礁の海で、様々な漁を行う海人・ムトゥを紹介しています。蜘蛛の巣を使った「凧揚げ漁」や、魚を痺れさせて獲る「魚毒漁」など、変わった漁法が出てきて興味深かったですね。男達だけで獲って楽しむ、海亀漁もなかなか見応えがありました。とにかく海が美しくて魚も豊富、こんな場所で半年くらいブラブラと気ままに過ごせたらどんなにか良いだろう。

『人間は何を食べてきたか 第6巻』 1992年・日本

今回は「海と川の狩人たち」の川編2本。1本目はアフリカのニジェール川流域でキャンプを張りながら漁(主な獲物はナマズ)をし、それを米や現金に換えながら生活する移動漁民ボゾ族のとある家族の奮闘ぶりを紹介しています。彼らが作る料理、燻製にした魚を米で包み込んでから堅めに握ったものは、日本の「オニギリ」や「握り寿司」を彷彿させて興味深かったですね。彼らはこの料理だけを毎日食べます。日々が生きる為の闘いと言っても良いボゾ族のあまりにもシンプルな食文化と、飽食ニッポンの多様多彩な食文化はまさに両極端、彼らにとって食は楽しみではなく生命を繋ぐものなんですね。食事をする彼らの表情は一見無邪気だけれど、目付きは鋭く、そして真剣そのものでした。2本目は北米・カナダの北西海岸に住むクワキウトル・インディアンのサケ漁と、北部一帯に住むイヌイット(エスキモー)の北極イワナ漁を紹介。彼らは大昔にユーラシア大陸から移動してきて定住したモンゴロイドの末裔で、外見的には日本人とほとんど変わりありません。クワキウトル・インディアンの、命を育んでくれるサケを人間のもう一つの姿(水の底にはサケ人の国があり、双子の片割れはサケ人の生まれ変わりとして大漁をもたらすとされている)であるとして敬い奉る風習が面白かったですね。魚が船で暴れないように銃(!)で頭を撃ち抜くオヒョウ漁の描写も迫力がありました。そしてイヌイット。北極イワナの身をナイフで切り取り、生のまま調味料も何も付けずにほお張る姿が印象的。寄生虫も死滅する(?)極寒の地ならではの豪快な食事でしたね。

『人間は何を食べてきたか 第7巻』 1994年・日本

今回から新シリーズ。1本目は中国・貴州省に住む少数民族・苗族のモチ米崇拝を紹介。収穫量の少なさと10万分の1という確立で誕生した変異種であるモチ米の神秘性が、土着的な宗教の儀式性へと結び付いているんですね。粘りの強いモチ米を好む民族は長江以南の地域と日本にほぼ限定されているという事実も興味深かったです。そういえば日本でもモチ米を使った料理は、冠婚葬祭との結び付きが強いような気がします。また、朝から農作業をするのに朝食を取らず、お昼にドカ食いするという食習慣も面白かったですね(若い女性などドンブリ飯を平均で4杯も食べてしまう!)。ちなみにモチ米は結婚の結納品であり、豊かさの証としての役割をも担っています。2本目はアフリカ南部のボツワナ共和国・カラハリ砂漠に住む人々の驚くべき生態を紹介。雨季の雨量が多くても400o程度しかなく、川も井戸もない不毛の大地に、水を生み出してくれるスイカの存在。雨季の終わりと共に成長し、乾季のあいだ腐らずに保存できるというまさに奇跡のような植物です。このスイカは水だけではなく、食料、お酒、その他の生活用水として人間が生きる為のあらゆる恵みを与えてくれるのですが、たった一種の植物に依存して暮らす人々の姿を見ていると、自然と一体となった人間の適応力の凄まじさに感嘆しつつも、何か超越的なチカラによって人が生かされているのでないだろうか?と感じずにはいられない、恐ろしいような神秘的なような思いが同時に湧き上がってきましたねぇ。殺した獣の乳を一心に吸う少年の姿も印象的。真夏の運動後以外には水の有難さなんて感じられない今の自分にとっては何とも新鮮かつ驚異的な世界でした。

『人間は何を食べてきたか 第8巻』 1994年・日本

いよいよ最終巻。まず1本目。現在、生産量の9割が家畜のエサとして使用されているトウモロコシを主食とする中米インディオの生活を紹介。食事の中心はトルティーヤというインドのナンのような物とマメのスープ、このメニューは365日変わることがありません。極めてシンプル。逆に言えば、人間が生きていくにはそれだけで十分なんだということですよね。ここでも世界中のあらゆる食材と料理が楽しめる日本とのあまりの違いに茫然とさせられます。そして究極的に工業化されたアメリカのトウモロコシ栽培の様子を捉えた映像、この人間生活の両極端には瞠目し沈黙せざるを得ませんでした。2本目は雑穀を命の糧としているアフリカ・トーゴ共和国のランバ族、そのとある大家族を紹介。彼らの食事もやはり質素にして単純。モロコシ等の雑穀を粉状にしてモチのように練ったものを、オクラや唐辛子をすり潰して作ったソースに付けて食べる、それだけです。他の料理や食材などはありません。これが毎日、毎食、一年間変わることなく続いていくんですよね。グルメなどとは全く無縁対極の世界、何とか生きていくための食であって、それ以上でもそれ以下でもない・・・何やらクラクラしてきます。また、ササゲという豆を売りに片道30kmもある市場へ、20キロの荷物を楽々頭上に乗せて歩いて行く若い女性たちの姿も印象的でした。これによって得た現金で、塩や砂糖や薬を買うのですが、そんな彼女たちのささやかな楽しみが、小さなアイス・キャンディを買って食べることなのですから、その逞しくも慎ましい様子には心を揺さぶられるものがあります。

『人情紙風船』 山中貞雄/1937年・日本

長屋群像劇。さりげなく贅沢な風俗描写の数々、見事な美術と照明によって、映像が江戸時代の空気感とでも言うべき豊かな芳香を放っている。この詩情、まさに日本のジョン・フォードだ。死で始まり死で終わる円環の構成や、主役二人の対照的な存在ながらも共にジワリジワリと死に向っていく不気味さなど、確かにペシミスティックではあるけれど、演出の軽快なリズム、脇役たちの軽妙ユーモラスな造形などが、全体的な印象をどこかカラッとしたものにしている。死と生のドラマが平行して進行していく、この絶妙なバランス感覚こそ山中貞雄の天才性なのかもしれない。だから、風に転がり、水を流れる紙風船も、それが人間の生の儚さの象徴であるのと同時に、変わらない日常を過ごしていく人間の逞しさを表現しているようにも思えた。それにしても何と言う才能だろう。省略の巧さ、構図の面白さ、影の見せ方、小道具の使い方、硬軟自在の演出の呼吸。これだけ技巧的でありながら、少しもあざとさを感じさせないのだから凄い。28歳にしてここまで洗練された映画を撮ることができた監督が、戦争によって命を奪われなければならなかったことに今更ながら激しい怒りを覚えてしまった。もしも山中貞雄が山本周五郎の世界を撮っていたら、なんて考えると惜しいやら悔しいやらで何とも切ない気分になってしまう。あぁ、かえすがえすも恨めしい・・・。

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