映画古今東西
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『トイ・ストーリー』 ジョン・ラセター/1995年・アメリカ

何度観ても面白い。構成と脚本と演出と音楽とキャラクター、すべてがここまで完璧に機能している作品も稀有だろう。作り手の愛情と熱意とこだわりが画面からビシビシ伝わってくる。優れた娯楽映画はすべからくそうであるように、抜群の演出リズムで実に心地良い気分にさせられてしまうのだ。だから意識の停滞がなく、作中に深く惹き込まれるので最後まで本当にアッという間。ギャグネタそのものではなく絶妙な動きとタイミングで笑わせる演出が如何にもアニメらしくて素晴らしい。

『トイ・ストーリー2』 ジョン・ラセター/1999年・アメリカ

映像も演出も大幅パワーアップ!とは言え、ストーリー的には「1」の方が好き。本作の魅力はやっぱり新キャラのジェシーに尽きるでしょう。「3」(?)ではどんな活躍を見せてくれるのか楽しみ。

『ドイツ零年』 ロベルト・ロッセリーニ/1948年・イタリア


『東京画』 ヴィム・ヴェンダース/1985年・西ドイツ=米

"現在(85年)の東京"で発見した小津的なイメージを想起させる情景の数々。パチンコ、ゴルフの練習場、見本品工場、竹の子族、これらの映像に共通するのは同じ動作の反復と秩序であり、つまりは小津映画の世界とも密接に繋がっています。でも、結局それはヴェンダースの記憶にあるイメージとは決定的に異なる"現実の東京"の姿でしかありません。そんな痛ましい旅日記が、笠智衆と厚田雄春という小津映画を支え続けた神話的人物の感動的なインタビュー映像と、『東京物語』の冒頭と最後のシークエンスに包まれることによって、比類なく美しいオマージュ・ドキュメンタリーになってしまうんですよね。まさに編集のマジックであり素晴らしいアイディアだと思います。個人的には新宿ゴールデン街を小津的なアプローチで撮影し、そのあまりにも畸形的なイメージに狼狽するヴェンダースとか、ゴールデン街のバー「ラ・ジュテ」(!)にいるクリス・マルケルとか、「映像なんてもうほとんど存在しない」とうそぶくヘルツォークに対して「私が求める映像は都市の雑踏の中にしか存在しない」(ブラボー!)と語るヴェンダースのシーンなどがお気に入りです。

『東京ゴッドファーザーズ』 今敏/2003年・日本

堂々たる浪花節。正攻法の人間ドラマで題材としてはかなり地味だけれど、個性的な人物造形、細かいディテールの背景(とんでもない描き込み量!)、あり得ない偶然の連続、といった過剰な味付けによって見事なエンターテインメントに仕上がっている。いま邦画で、この手の庶民派ファンタジーをさらっと嫌味なく描けるのは実写ではなくアニメなんだと思う。声優の演技も素晴らしい。

『東京の女』 小津安二郎/1933年・日本

姉の秘密を知ってしまった弟が絶望から自殺してしまう救いのない短編。全編を覆っている暗いトーンの映像が、後年のやはり"東京"という言葉が題に入った『東京暮色』と重なる。『東京物語』といい"東京"がつく作品には"人間の死"というものが一貫して描かれている。それにしても田中絹代が若い!ってそれもそのはず、調べてみると撮影当時は24歳。幼顔で、十代後半ぐらいに見える。あの大女優にもこんな時代があったのか、と思えるほど演技が拙かったのには感動(笑)。

『東京日和』 竹中直人/1997・日本


『東京暮色』 小津安二郎/1957年・日本

暗い。ひたすら暗い。小津映画にこんな重苦しい作品があったなんて驚き。主要人物のほとんどがネガティブな問題を抱えているし、映像自体も全体的に陰鬱な雰囲気(照明が薄暗い)で統一されている。まるで成瀬巳喜男の映画を観ているような印象を受けた。俳優では薄幸のヒロインを演じる有馬稲子が強烈。端整な顔立ちながら、終始暗い陰を宿した表情と淡白な態度は、まるで岩明均のマンガに登場するヒロインみたいだった(笑)。貫禄だったのは、夫の問題で実家に戻ってきている長女・孝子を演じる原節子の存在感だ。取り立てて目立つ役ではないけれど、有馬稲子を寝かし付ける時の微妙な表情の変化や突如泣き崩れるところなど、要所で見せる表現力は圧巻。物語上の重要な場所として雀荘が頻繁に出てくるところも個人的には面白かった。それと『早春』でも使われていた明るく単調な音楽が作品の暗さを中和するように全編で流れている。暗さが頂点に達する後半のとある場面でも平然とバックに流れていたのが印象的だった。

『東京物語』 小津安二郎/1953年・日本

映画、その一つの究極を観たような、とてつもない衝撃を受けてしまった。老いた両親が上京して、子供たちに会い、小さな温泉旅行に出かけ、帰り、そして死んでいく。ただ、それだけ。当たり前の日常がほんの少し変化して、また当たり前の日常へと戻っていくだけの、そんな家族社会の円環をなす生の営みを、静かに、厳格に、人間を仰ぎ見るような低い視線で見詰めていく小津映画の圧倒的な誠実さと残酷さ。ヴィム・ヴェンダースは本作を「形式的厳密さを好む作家がその好みを徹底させた場合、逆に驚くべき自然に達し、ほとんど生々しいドキュメンタリーであるかのように思われてしまうことがある」と言って絶賛したという。けだし名言だと思う。人物を捉えた一見なんでもないショットにおける言いようのない感動。この不思議な感覚は一体何なのか?ミドルにしてもロングにしても小津映画に出てくる人物は他の映画とは明らかに違う何か特別なオーラのようなものを発しているような気がする。東山千栄子の笑顔、笠智衆の横顔と背中、原節子の泣き顔、あらゆる映画で見慣れている筈の表情や所作なのに、まるで初めて目にしたかのような奇妙な錯覚を覚えてしまう。とにかく映し出される映像すべてが独特で新鮮なのだ。時代や技術やジャンルに関係なく完全な個として存在し得る映画。映画の聖域。それが『東京物語』なのかもしれない。オールタイム・ベストの1本であり、人生の宝物にしたい作品。至福の映画体験だった。小津監督、ありがとう。

『桃源鎮』 シォン・ユィ/1996年・中国

秘境と言っても良いような山深い場所にある小さな村を舞台にした鍛冶屋と豆腐屋の熱き政治闘争。魅惑的なタイトルとは裏腹にそこに住む人間たちの滑稽で醜い政治劇が描かれています。斜面が多く狭い街並みはまるで大林映画の尾道を見るような独特の味わいがあって良いですね。主人公の豆腐屋は絵に描いたような見事な小物っぷりで見ててイライラするくらい、逆にライバルである鍛冶屋のオヤジは豪放で明るく遥かに人間的魅力に富んでいました。何事もなかったかのように穏やかな日常へと戻っていくラストが秀逸です(遠くに聞こえる鍛冶の音も素晴らしい)。

『童年往事/時の流れ』 侯孝賢/1985年・台湾

素晴らしいホームドラマ。やはり、ふとしたショットから"小津的"な世界が滲み出てくる。日本様式の家屋やどこか懐かしい鄙びた町並み、日本映画のポスター、日本刀。これら日本統治時代の残滓ともいうべきものが、人々の生活の中に溶け込んでいる風景。何とも複雑な親近感が湧いてくる。町の広場の空間演出も見事で、時折、軍隊と思しき馬や車が猛烈な勢いで通り過ぎていくのが、本作の牧歌的で穏やかな雰囲気を一瞬不安にさせる鮮やかな動のアクセントになっている。また、外省人と本省人に分かれた少年たちの対立は、エドワード・ヤンの『クーリンチェ少年殺人事件』と同様、台湾社会が抱える灰色の問題を浮き彫りにする。この作品も多くの小津作品がそうであるように、人が徐々にいなくなっていく映画である。父、母、祖母、それを見送る子供たち。家の前にある大きな樹木が印象に残った。まるで生と死の循環を象徴しているかのように屹立している。

『逃亡者(93年版)』 アンドリュー・デイヴィス/1993年・アメリカ


『トゥモロー・ネバー・ダイ』 ロジャー・スポティスウッド/1997年・アメリカ


『トゥルーライズ』 ジェームズ・キャメロン/1994年・アメリカ


『遠い空の向こうに』 ジョー・ジョンストン/1999年・アメリカ


『遠すぎた橋』 リチャード・アッテンボロー/1977年・イギリス=仏


『都会のアリス』 ヴィム・ヴェンダース/1973年・西ドイツ


『時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース!』 ヴィム・ヴェンダース/1993年・ドイツ

「ベルリン天使の詩」の続編で、壁崩壊後のベルリンが舞台になっています。ん〜映像は見事だったのですが、話の内容にはちょっと不満が残りました。前作のようなファンタジックなロマンス、人間讃歌と言ったテーマはなくなり、東西統合後のベルリンの暗部が主に描かれた言わば現実的な作りになってしまっているのが残念でしたねぇ。それだけ統一後のドイツに対するヴェンダースのネガティヴな心情を反映されていると言うことなのでしょうか。極私的な意見としてはもう少しナスターシャ嬢を見せて欲しかったかも。しかしこれだけ豪華な出演陣(何せゴルビーまで出てくる)を使いながらこの地味さ。さすがヴェンダース(笑)。そして見所と言えば約20年ぶりとなる『都会のアリス』の復活ショット!すっかり大人に成長したイェラ・ロットレンダーが天使となってリュディガー・フォーグラーに寄り添うところは感動的でした。

『時をかける少女』 大林宣彦/1983年・日本


『トーク・トゥ・ハー』 ペドロ・アルモドヴァル/2002年・スペイン

エキセントリックで残酷で切ない、男の愛と友情を描いた寓話。アルモドヴァルが「ボーイ・ミーツ・ガール」をやるとこうもいびつになるものか(笑)。ある意味、すべての母(=女性)に捧げられた『オール・アバウト・マイ・マザー』と対をなす作品と言っても良いかもしれない。時間がやたらに飛躍する落ち着きのなさや、過剰に饒舌なシーンなど、ちょっと首を傾げたくなるような部分もあるけれど、下品すれすれの色遣いとか、女性を捉えたショットの美しさとか、音楽の使い方とか、好きだなぁ。眠れるヒロインの傍らには『狩人の夜』の研究本(?)が置いてある。Love&Hate・・・ん〜なるほど。

『独立愚連隊』 岡本喜八/1959年・日本


『時計じかけのオレンジ』 スタンリー・キューブリック/1971年・イギリス

M・マクダウェル唯一無二の当り役、と言えば本作の悪童アレックス。暴力とセックスとベートーベンを愛する好青年(?)をカリスマ性たっぷりに快演している。ところでこの作品、好きなのか嫌いなのか自分でも今一つハッキリしません。映像も演出も美術も音楽も脚本も俳優も全てが良し!の筈なのに観終わった後の感覚は何故か気持ち悪い。劇中アレックスはルドビコ式心理療法という洗脳を受け、暴力やセックスに反応すると嘔吐感に見舞われていたけど、ひょっとしたらこの作品そのものが自分にとってのルドビコ式心理療法だったのかもしれない。それにしても多感な思春期にこの映画と出会わなくて良かった。まぁ影響を受けるような感性があったとも思えないけど(笑)。

『どこまでもいこう』 塩田明彦/1999年・日本

どんなにリアルな児童映画も所詮は大人の視点で描かれた子供の世界に過ぎない。でも、本作にはあの頃にしかなかった"特別な何か"、その時間と空間の存在を確かに感じることができる。ヴェンダースの系譜に連なる情景ショット、ロケット花火と紙ヒコーキ、75分という尺。紛れもない傑作。

『トータル・リコール』 ポール・ヴァーホーヴェン/1990年・アメリカ


『突貫小僧』 小津安二郎/1929年・日本

人さらいの大人が子供に翻弄されてしまう何とも大らかで微笑ましいコメディ短編。『生れてはみたけれど』で父親を演じていた斎藤達雄が本作でもヘンな顔を連発する。子供にせがまれ、苦し紛れにポーズを取ってごまかす「デンデン虫の顔」など滑稽味たっぷりだった。

『ドッグヴィル』 ラース・フォン・トリアー/2003年・デンマーク

"アメリカ"または"世界"を模して作られた「トリアーの箱庭」の中で描かれる人間の善悪の相対性。セットが極端に簡素化されている分、密度の高い人間ドラマになっている。ドラマ自体の出来が良いので、映像の変化に乏しい小さな空間内で展開される3時間の劇にもほとんど退屈することがなかった。共同体に紛れ込んだストレンジャーであるニコール・キッドマンは単なる物語的な存在としてだけではなく、生活科学、異文化、性革命などのメタファーとして捉えられるのが面白い。寓話性の強い作品だけれど、最後の最後に痛烈なアメリカ批判をぶちかますので、普遍的な寓話としての説得力がやや失われてしまうのが残念だった。人と社会の本質的な悲劇性を暴こうとするトリアーの冷厳な眼差しは良くも悪くも刺激的ではあった。ちなみにローレン・バコールとベン・ギャザラとジェームズ・カーンが出演している。エンドクレジットで流れる「ヤング・アメリカンズ」、そして次々と映し出される最下層の人々のスチルが印象的。この監督、やっぱ相当な皮肉屋だな(笑)。

『突撃』 スタンリー・キューブリック/1957年・アメリカ

「絶対的な階級社会」をテーマの中心に据えることで、人間のエゴと軍隊という組織がもつ理不尽さを痛烈に暴き出した反戦映画の傑作。塹壕内の描写や戦闘シーンの生々しい臨場感、鋭い硬質の視線は、いかにもジャーナリスト経験のあるキューブリックらしい映像感覚だ。公明正大な指揮官カーク・ダグラスが、結局は軍隊の前に屈服せざるをえないことを示すラストが印象に残る。

『突然炎のごとく』 フランソワ・トリュフォー/1961年・フランス


『トッツィー』 シドニー・ポラック/1982年・アメリカ


『突入せよ!「あさま山荘」事件』 原田眞人/2002年・日本

あれもこれもと欲張らずにシンプル一点、事件に立向かう警察の姿のみを描いた潔さが小気味良かったです。音楽も良いですね。役所広司は相変わらず演技なのか地なのかよく分かりません(^^;

『トップガン』 トニー・スコット/1986年・アメリカ


『どですかでん』 黒澤明/1970年・日本


『となりのトトロ』 宮崎駿/1988年・日本


『トニ』 ジャン・ルノワール/1935年・フランス

南仏で働く季節労働者の姿を瑞々しい映像で綴った小品です。スペイン系労働者が奏でる哀感漂うギターの音色と歌声、南仏の情景(景色と建物と陽光)、至るところに映し出される蝿が印象的でした。『自転車泥棒』や『揺れる大地』が世に出る10年以上も前に本作を撮ったルノワール。本作にはあのルキノ・ヴィスコンティが助手として参加していたことでも知られています(クレジットはされていませんが)。ネオ・レアリスモの原形ここにあり。さすがです。

『ドノバン珊瑚礁』 ジョン・フォード/1963年・アメリカ

これはファニーでお茶目なコメディですね〜。物語としては今ひとつなんですが、とことんアクション・コメディに徹した演出の小気味良さで飽きさせません。小道具の使い方も絶妙で、例えばフォード作品のお約束とも言える殴り合いのシーンでも、豪快に泡ふくビール瓶、ジュークボックスから噴出するコインなどが良いアクセントになって笑いを誘います。物がよく破壊され、人がよく倒れ、よく水に飛び込むなんてのも視覚的にすこぶる爽快なんですよね(笑)。それとエリザベス・アレンの涼やかなコメディエンヌっぷりが良いんだなぁ〜。ジョン・ウェインとの掛け合いも息ピッタリ!水着の意外なギミックに目を丸くするジョン・ウェインなんて最高に可笑しかったですねぇ。フォードの映画に出てくる女性はどうしてこんなにも魅力的なのでしょうか。色彩の美しさも忘れ難いです。

『友だちのうちはどこ?』 アッバス・キアロスタミ/1987年・イラン


『ドラキュラ』 フランシス・フォード・コッポラ/1992年・アメリカ


『虎の尾を踏む男達』 黒澤明/1945年・日本

60分ほどの小品ですが、実に小気味良く痛快なミュージカル風時代劇でした。弁慶役の大河内傳次郎(凄い貫禄!)と強力役のエノケン(表情と動きの芸術)の静と動のコントラストが見事です。

『トラフィック ぼくの伯父さんの交通大戦争』 ジャック・タチ/1971年・フランス

ジャック・タチの映画は不気味なほどに整理整頓されたホコリ一つ感じさせない清潔な映像が魅力的だ。タチ様式とも言える独特の洗練されたギャグの数々、偏執的な道具へのこだわりも素晴らしいの一言。それにしても・・・動かないキャメラ、モダンな配色、シンプルで軽快な音楽、素早くリズムカルなカット割り、機械的な人の動き、スタンダード画面、そして不気味なくらい清潔な映像、観れば観るほど感じられてならない小津安二郎後期カラー作品との相似点。本作はいつも通りにさり気な〜く奇行をとるユロ氏と、派手に奇行をとるヒロイン・マリア・キンバリーとの組み合わせの妙が面白い。彼女が黄色いオープンカーを猛スピードで乗り回す様は何ともデンジャラスで爽快。しかも訛りの強い英語を喋るアメリカ人で、次々と衣装を変えていく。まるでオードリーみたいだ。

『どら平太』 市川崑/2000年・日本


『トラベラー』 アッバス・キアロスタミ/1974年・イラン


『鳥』 アルフレッド・ヒッチコック/1963年・アメリカ

やっぱりヒッチコックは天才映画作家だ。これほど純粋な恐怖映画というのはちょっと記憶にない。あるようでまったくない物語性、その唐突に起こり唐突に終わっていく不条理な恐ろしさ。音楽はなく、耳に残るのは鳥の鳴き声と人の叫び声ばかり。一見退屈な展開からジリジリ不安感を増幅させていき、一気にショッキングなモンタージュで畳み掛けていく演出リズムの妙。ジャングルジムに一羽また一羽と鳥が集まってくるシーンなどはまさにヒッチ魔術炸裂と言った感じ。この異様さは只事じゃない。ガソリンスタンドの炎上を鳥瞰の超ロングで見せるショットも凄い。露骨に時代を感じさせる合成映像も出てくるが、それらは作品の本質的な評価とは全く無関係だ。偏執的なまでに見せつけられるセンス・オブ・ワンダーに充ちた映像演出術、本作の魅力はこの一点に尽きるのだから。CG技術でどんなにリアルな鳥を作り出そうとヒッチコックの『鳥』のような、ある意味トラウマになってしまうような強烈な映像世界は絶対に生み出せないと思う。そういう意味でキューブリックの『2001年 宇宙の旅』に匹敵する偉大な実験映画でありイメージの映画と言えるのかもしれない。

『トリコロール/青の愛』 クシシュトフ・キエシロフスキー/1993年・フランス=ポーランド=スイス

仏国旗の青は自由を意味する。薄淡く冷たい、青いヴェールに包まれた映像と、至る所に散りばめられた青が、ジュリエット・ビノシュ演じるヒロインの自由への渇望と恐怖、その無意識の葛藤を静かに暗示する。キェシロフスキの映像、演出はますます洗練され、美しくなっているけれど、それが、今までの作品に顕著だった細部の魅力や生々しさを希薄にしてしまっている感も否めない。十字ネックレスや娼婦、寛容と愛などキリスト教的な倫理観が濃厚に感じられる作品でもあった。

『トリコロール/白の愛』 クシシュトフ・キエシロフスキー/1994年・フランス=ポーランド

仏国旗の白は平等を意味する。お互いに幸せも苦しみも等しく(?)味わった夫婦がたどり着いた愛の結末とは?という寓話めいた人間喜劇。登場人物はみなどこか滑稽味を帯びていて、キェシロフスキらしからぬ軽やかさが全編に漂っている。映像的なこだわりはほとんどなく、脚本の妙味を楽しむ作品になっているところが前作と対照的。意外なところで『青の愛』の一場面と繋がっていたり、瓶を捨てる腰の曲がった老人が『青の愛』に続いて登場したり、『青の愛』と同じ韻を踏むような終わり方をしたり・・・と、この辺りの細かい遊びは『偶然』や『デカローグ』を彷彿させて面白い。それにしてもジュリー・デルピーがほとんど脇役扱いなのには意表を突かれた。

『トリコロール/赤の愛』 クシシュトフ・キエシロフスキー/1994年・フランス=ポーランド

仏国旗の赤は博愛を意味する。圧巻!犬を媒介にして生まれる老人と女性モデルの奇妙な交流。そして平行して描かれていく一組の男女の愛。それは老人が過去に失った愛でもある。トリッキーな脚本と演出に困惑しながらも、どんどん引き込まれていく。その不思議な吸引力。複雑に絡み合った糸が次第に解きほぐされていき、やがて一つに紡がれていく様はまさにキェシロフスキ魔術の面目躍如である。勿論赤は至るところに存在している。ズビグニエフ・プレイスネルの音楽も強烈な印象を残す。愛を再生していく老人ジャン・ルイ・トランティニャンの枯れた演技。そしてイレーネ・ジャコブの美しさ!広き愛をもった女性を柔らかな所作と表情で演じ、3部作のヒロインの中でも際立って魅力的な温かい存在感を見せてくれる。今回もやはり瓶を捨てる腰の曲がった老婆が登場する。彼女に手を貸してあげるのはイレーネ・ジャコブだけだ。また『青の愛』に出てくる鼠と『赤の愛』に出てくる犬が鮮やかな対比となって"博愛"の精神を強調している。たとえ鼠であっても犬と同じように慈しみをもって接する。そういう姿を容易に想像できてしまう説得力がイレーネ・ジャコブ演じるヒロインにはあると思う。最後の大仕掛けはキェシロフスキらしい壮大な戯れだった。

『Dolls』 北野武/2002年・日本

近松門左衛門の「冥途の飛脚」は知りませんでした。ただ、そっと寄り添う文楽人形が見せる、3つの儚ない愛の幻想はとても切なくて美しい。断片的にしか語られない登場人物たちの背景、異常な愛のカタチ、それぞれの不条理な結末。見る者の共感や感情移入を拒むかのように設定されたこれら諸要素と異様に綺麗な四季の風景というミスマッチな組み合わせが何とも魅力的。脚本は好きになれませんが、演出と編集の妙味、映像感覚の鋭さは文句ナシに素晴らしいです。やっぱり北野武はイメージ(ショット)の人なんだとつくづく思う。久石譲の音楽は珍しく控え目。

『トレインスポッティング』 ダニー・ボイル/1996年・イギリス


『泥棒野郎』 ウディ・アレン/1969年・アメリカ

関係者のインタビュー映像と、実録風の再現映像によって構成された伝記コメディ。抑制の効いたナンセンス・ギャグの洪水。真面目な顔して、やることなすことことごとくフザけている。石鹸で作ったピストルには大ウケ。すっとんきょうな集団脱獄もくだらなすぎて笑った。美女と良い仲になったり、ユダヤ&自虐ネタがあったりと、後に確立されるアレン・スタイルの片鱗も少しだけ見られる。

『冬冬(トントン)の夏休み 』 侯孝賢/1984年・台湾

鄙びた駅舎、巨木と廟、川遊び、板廊下の艶、柱時計、家の近くを通る電車。自分が持つ田舎の原風景そのものが映画になったような強烈なノスタルジー。しかし、そんな詩情溢れる情景が淡々と流れていく中、突如現われるスリリングな瞬間。トントンの妹ティンティンが線路の上で転んでしまい、手ぶれキャメラの主観ショットになる。その直後、画面横から滑り込んでくる電車の凶暴なまでのスピード感には心臓が凍りつくような戦慄が走ります。音は繊細で生々しい存在感がありながら、同時にサイレント映画のような画面造形、人の動かし方をしているのも感動的です。ロングショットも比類なき美しさ(素晴らしい構図!)。最後がまた良いんですよね。キャメラの素早いパンだけで喜劇的な状況を予感させてしまう巧みさ、叔父の呻き声が耳から離れません(笑)。本作は「仰げば尊し」で始まり、「赤とんぼ」で終わりますが、後者は『ミツバチのささやき』の、あの印象的なテーマ音楽に驚くほど似ています。ちなみにトントンの父親を演じているのはエドワード・ヤンです。

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