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小津安二郎生誕100周年記念 国際シンポジウム

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有楽町の朝日ホールにて12月11日、12日の2日間にわたり行われた「小津安二郎生誕100周年記念国際シンポジウム」に参加してきました。今回はその模様と所感を紹介します。

初日

世代を超える小津安二郎

 12月11日。シンポジウムの会場である朝日ホール11Fに到着したのは開場時間である正午近く。すでに多くの人が列をなしていた。ざっと見た限りでは老若男女まんべんなくいるみたいだ。没後すでに40年、小津さんは世代を超えて愛されている。やがて係員の声が響き、開場。ロビーでシンポジウムの資料を渡される。ロビーには小津関連の書籍やDVDBOXが売られていた。同時通訳機も配られていたが、取り敢えず席を確保するため足早に館内へ。中央やや前目の席に座る。

座談会「小津は生きている」

 館内では小津映画の音楽が軽快に鳴っている。ん〜やっぱり「サセレシア」は和むなぁ。おっ、『東京物語』のテーマ曲。しみじみ。資料に目を通しているとブザーが鳴り、アナウンスと共に館内の照明が落ちる。舞台奥の巨大スクリーンに小津作品の映像が映し出される。「あっ、同時通訳機を取りにいかなかった」「まっ、いいか」などと考えながらスクリーンを見詰めていると、舞台に照明が当てられ蓮實重彦、吉田喜重、山根貞夫の御三方が姿を現す。私の眼差しは一人の人物に注がれていた。その人物とは恐らく最も世界に知られた日本人の映画評論家であり、現代日本を代表する思想家、知の巨人としてもその名を轟かす蓮實重彦である。独特の文体によって煽動、魅了され、単なる映画ファンから映画と抜き差しならぬ関係になってしまった犠牲者は数知れず。その影響力は絶大で、インテリ映画人たちは良くも悪くもその呪縛から未だに解放されないでいる(注:私は氏の著作を何点か所有し、大変尊敬もしていますが、いわゆる「ハスミ虫」と言われるような盲目的な信者ではないことをここに明記しておきます笑)。その蓮實重彦が語った小津安二郎とその「憤る女たち」。一見無感情な小津映画の女性たちはタオルや手ぬぐいや衣服を投げ捨てることによって怒りを表明し、作品を活気づけている、ということを実際の映像を交えて解説していく。瑣末な部分にこそ隠されている小津映画の魅力。映像が出ないアクシデントもあったが、さらりと冗談を言って会場の笑いを誘っていた。吉田喜重監督の小津映画とは「反復とずれ」であるという話も興味深かった。結局3人の語りで時間切れとなり座談会は出来ず終い。

世界の評論家が見た小津

 蓮實重彦を司会に世界の著名な評論家たちが小津を語る。最初の評論家がフランス語でしゃべり始めるが、同時翻訳機を取りにいってなかったので当然何を言ってるのか分からない。仕方がなく隣席のイヤホンから漏れてくる日本語通訳に耳を傾けるが、館内に響くフランス語に惑わされてよく聞き取れない。「なんてこったい!」「でも恥ずかしくて席を立てないし」という後悔の念と己の小心ぶりに腹を立てるが、そんな葛藤をよそに評論家は語り続ける。それをすまし顔で聞き入り、時には頷いたりしてみせる自分。虚栄心のかたまりである。しかし心は重苦しい。こうして一人目の語りが終わってしまう。すると数人が一斉に席を立った。「おおっ仲間がこんなに!」。俄然勇気が湧き、自分も席を立ってロビーへ。同時翻訳機を受け取る。やれやれ。これですっかりリラックスしたのか、途中から強烈な睡魔に襲われることに。いや本音を言うと話の内容がいささか退屈だったのである。いかにも評論家然とした堅苦しい小津論。これまでさんざん語られてきた小津映画の特異性を小難しく変奏するだけであまり新鮮味は感じられなかった。ただ韓国人評論家イム・ジェチョル氏の韓国における小津映画の話やシャルル・テッソン氏の小津、成瀬、溝口の映画に登場する海岸シーンの比較論はなかなか面白かった。この辺からお尻が痛くなり出し、頻繁に座り直しをし始める。

女優に聞く―1

 「これから紹介する方達をそこいらの芸能人(ここで笑い)とは決して一緒にしないでください。彼女たちこそ本物のスターであります」と蓮實氏。サイレント期の小津作品に2本出演した井上雪子さんと、『秋日和』『秋刀魚の味』に出演した岡田茉莉子さんが登場。井上さんは御年88。残念ながら出演した2本の作品はプリント消失のため観る事ができない。スチールでその往年の美しさを偲ぶことが出来る。すごくユーモアのあるお茶目な老婦人で「補聴器を忘れた」と語った後、聞き手の蓮實氏をしばしば翻弄する様が微笑ましかった。小津さんの「おっちゃん」というニックネームは彼女が付けたという話や、共演した故・岡田時彦(岡田茉莉子の実父)の思い出話など終始和やかに笑いを伴って進行していく。一方、岡田茉莉子さんは蓮實氏のセクハラ尋問(笑)に困惑しつつも当時の思い出を語っていく。最後は岡田時彦のトーキー・プロマイドに収められていた本人の声を聞く(茉莉子さんはこのプロマイドによって生まれて初めて父親の声を知ったのだそうです)という感動的な締めくくりだった。

世界の監督たちが見た小津

 30分の休憩を挟んで、最後のプログラムが始まる。目の前にはアッバス・キアロスタミ、マノエル・デ・オリヴェイラ、ホウ・シャオシェンが。偉大なるシネアスト達の生の姿に少なからず興奮する。が、ここで思わぬアクシデント発生。キアロスタミ監督が歯痛のために早々と退場してしまったのだ。代わりに司会の蓮實氏が用意しておいたキアロスタミ監督のテクストを読み上げることに。そりゃないよ〜。次いでペドロ・コスタ。今回まったくの初耳であったこの1959年生まれのポルトガル人監督は、蓮實氏曰く「映画の21世紀はペドロ・コスタとともに始まる」と言わしめるほどに重要な作家。これまで撮ってきた作品は4本。その3作目にあたる『骨』が、12月15日にアテネ・フランセ文化センターにてプレミア上映される。最新作の『ヴァンダの部屋』も来年2月に公開されるとのこと。要チェックである。雰囲気がどことなくジャームッシュを彷彿させた。そしてマノエル・デ・オリヴェイラ。存在そのものが映画史と言っても良いポルトガルの巨匠は思った以上に若々しく見えた。『晩春』における原節子と笠智衆の関係を性的なものではなく、深い情愛によって結ばれた神聖なものであると、現代の安易に語られるセックスに対して警鐘を鳴らす、その姿にはとても90歳を越える老人には見えない力強さがみなぎっていた。ホウ・シャオシェン。何とも人好きのする笑顔を持つ台湾の映画作家。「実は昨日新作のゼロ号が出来たばかりなんだ」との言葉に会場が小さくどよめく。どうやら『珈琲時光』は間に合ったみたいだ。彼の小津映画と家族についての優しさ溢れる語りは素晴らしかった。最後は吉田喜重。晩年の小津監督との間に起こった宴席での出来事の話、亡くなる一ヶ月前、病院で別れ際に語った言葉「映画はドラマだ、アクシデントではない」についての話などが語られた。

予期せぬ感動

 全プログラムが消化され、シンポジウムも終わろうという時、蓮實氏の口から思わぬ話が飛び出す。なんと今日はマノエル・デ・オリヴェイラ監督の誕生日だという。しかもパスポートの記述によれば誕生日は翌12日になっている。つまりマノエル・デ・オリヴェイラは小津安二郎と同じ日に生まれたということになる。そう告げられた瞬間、会場からは大きな拍手が沸き起こる。岡田茉莉子さんによって花束が渡されると、拍手はより一層激しくなり、満95歳を迎えて今なお映画を撮り続けるこの偉大なるシネアストは柔らかな微笑を浮かべつつ感謝の言葉を述べた。実に予期せぬ感動的な初日のフィナーレであった。

二日目

12月12日

 前日の感動覚めやらぬままに迎えた二日目。小津安二郎の生まれた日であり命日である。会場ロビーでシンポジウムのプログラム(1,000円)を購入。傍らにあった蓮實重彦の「監督 小津安二郎 改訂版」に激しく惹かれるも3,800円という値段を見て断念する。今日はシンポジウム終了後にホウ・シャオシェン監督の新作『珈琲時光』のワールド・プレミアが予定されている。世界初公開。楽しみだ。中央やや後ろ目の席を確保して、同時翻訳機を取りにいく。

日本の監督たちが見た小津

プログラム 山根貞夫を司会に日本の映画監督5人が小津を語る。まずは澤井信一郎氏。視線が交わらない小津映画の特徴(澤井氏は逆視線と言っていた)をカットバック手法の解説をしながら丁寧に長々と説明。とは言え小津ファンにはあまりにも周知の話なので正直退屈してしまった。小津作品と本人との係わり合いに的を絞って話して欲しかったかも。次いで崔洋一氏。さすがに論客としてTVでも活躍するだけあって、切れ味のある小津演出論が展開された。「小津さんはきっと民主主義が大嫌いだったに違いない」という締めの言葉には皆苦笑。是枝裕和氏は劇場デビュー作『幻の光』の主な舞台となる能登の家屋の佇まいを見て思わず小津をやってしまったと告白。しかし、静的な映像の中に登場人物の動的な心理がうずまく小津映画とは違い、自分の映画には静的な映像と静的な人物がいるだけで、所詮表面的な小津の模倣でしかなかったことが分かったとき、もう小津的な画作りはするまい、と決心するに至ったと語る是枝氏。そして黒沢清氏。いきなり「小津映画ほど不気味な映画はない」と語り会場の笑いを誘う。「先日TVでやっていた『風の中の牝鶏』に出てくる人物だってみんな幽霊ですよ。佐野周二の顔は怖いし、階段から落ちて死んだと思った田中絹代もゆ〜っくりと起き上がって・・・」。ここでも会場爆笑。小津的な映像を撮ってしまわないように日本家屋を避けていたのに、なぜか『降霊』という作品の中で日本家屋を使ってしまった。すると指示してもいないのにキャメラマンがキャメラをローポジにしたり、主演の役所広司がセリフを棒読みしたりして、と終始ユーモラスな内容。小津安二郎はそうやって今の日本映画界の人々に無意識的に影響を与え続けていると結ぶ。他にも「小津の映画を皆スローだと言うが、小津映画ほど早いものはない」という話も面白かった(言われてみれば確かに小津映画の細かいカット割と流れるようなテンポの良さは"早い"という表現がしっくりくる)。最後は青山真治。「黒沢さんの爆笑トークのせいで妙なプレッシャーが」とグチをこぼしつつ、負けじと「小津病」についての考察を「仁義なき戦い」や「太陽を盗んだ男」などを引用して語り、大いに会場を盛り上げる。人が二人横に並んだ映像はすべて小津に結びつけ、思わず「あっ、並んでる」とか「また並んでるよ」と呟いてしまう現象。もう可笑しいったらない。こうした若手監督たちの屈折した小津への愛にベテラン監督や山根氏も苦笑することしきりであった。

女優に聞く―2

 淡島千景さんと香川京子さんが登場。香川京子さんの線の細さ、顔の小ささ、歳を感じさせない美貌にしばし見惚れる。言葉から滲み出る気品といい、まさに全身から女優のオーラが発せられている。それは井上雪子さん、岡田茉莉子さん、淡島千景さんにも共通して言えることである。香川さんが語る原節子の思い出話が良かった。今や世界映画史の神話的な存在となった大女優はざっくばらんでビールが好きな大変気さくで明るい女性だったそうである。北鎌倉で静かに余生を過ごす原節子は、今日この日をいったいどんな想いで迎えているのだろうか。

全体討議とまとめ 海外及び国内の参加者たちを交えて

 遂に大詰め。スケジュールの都合で会場を後にした崔洋一、NHKの仕事が終わり会場に向いつつあるというアッバス・キアロスタミ、新作『珈琲時光』のフィルム・チェックのために15分ほど遅れるというホウ・シャオシェン以外の参加者たちによって今回のシンポジウムの総括が行われた。評論家による簡単なまとめと監督への質問がなされる中で、ひょんなことから初日にオリヴェイラ監督が語った『晩春』における原節子と笠智衆の関係が取り沙汰されることになる。吉田監督の解釈にやんわりと意義を唱えるオリヴェイラ監督といった贅沢なやりとりが行われた後、ホウ・シャオシェンが姿を現す。オリヴェイラ監督と微笑み合いながら肩を抱き合う。「このような光景が見られただけで私は幸せです」とは蓮實氏の言。ペドロ・コスタ監督の発言「小津監督が残した「映画はドラマだ、アクシデントではない」という言葉について私はこれからもずっと考え続けていくことになるでしょう」も印象的であった。そして吉田監督の『東京物語』で昏睡状態の妻に笠智衆が語りかける「癒るよ・・・。癒る、癒る・・・。癒るさァ・・・」のセリフの微妙なニュアンスの変化に小津さんの小津さんたる部分を見出せる、という話。『秋刀魚の味』で娘の結婚式の帰りに寄った際、バーのマダムがモーニング姿を見て「今日はどちらのお帰り、お葬式ですか?」と訊くと、笠智衆が「ウーム、ま、そんなものだよ」というセリフの真意。はからずも遺作となった本作で、人生における喜びと悲しみには境界などなく表裏一体のものなのだと悟ったかのように語って逝かれた小津さんは本当に幸せな映画監督だったと思う、と万感の表情で語り終える。こうしてシンポジウムは静かにその幕を閉じたのだった。

『珈琲時光』ワールド・プレミア

『珈琲時光』プレスシート 上映準備のため一旦会場の入口まで戻されて再度並ばされる。試写付き2日券を持った一般客の列と招待客の列。マスコミ関係者の受付も行われていて、入口付近では何人かがTV局のインタビューを受けていた(誰なのかは不明)。なかなか開場されずに暇を弄んでいると、脇の控えの間と思しき部屋から3人の外国人が出てきた。その中の一人は明らかに見覚えのある容姿をしている。特徴のある大きな黒い眼鏡、そうアッバス・キアロスタミその人だ。尊敬するシネアストがすぐ脇を通り過ぎていく。興奮して思わずニヤニヤ。彼も笑顔で話をしている。もう歯痛は治ったのだろうか。思ったよりも小柄だった。黒澤明やジョン・フォードのような偉丈夫を想像していただけに意外であった。ところでキアロスタミも小津に捧げる映画『5 five』という新作を撮ったそうで、12月13日から東京都写真美術館ホールで開催される「アジア・フィルム・フェスティバル」の中で上映されるとのこと。そしてようやく開場。中央やや左寄りの席に座る。中央部分の関係者専用席にはシンポジウムに参加した海外の評論家の姿が見える。ペドロ・コスタやマノエル・デ・オリヴェイラ、蓮實重彦もいる。彼らのすぐ側でともに同じ映画を鑑賞するのだと思うとまたもや舞い上がってニヤニヤニヤニヤ。これじゃただの映画オタクだよ。他にも著名人は沢山いたようだけれど、クールを装いキョロキョロせずにいたので結局誰なのかは分からず終い。左脇にびっしり埋め尽くされたTVカメラを見て改めて世界的な名匠ホウ・シャオシェンの新作ワールド・プレミアであることを実感する。やがてブザーがなると、場内が暗くなり、舞台上に監督と出演者が姿を現す。舞台挨拶だ。一青窈、浅野忠信、荻原聖人、余貴美子、小林稔侍といった面々。ん〜生で見る浅野忠信はカッコイイなぁ。オーラ出てるよ、ウン。長髪はヘンだけど(笑)。そしていよいよ上映が開始された。

『珈琲時光』を観る

 窓から淡い光が差し込む薄暗い部屋の中、一青窈演じるヒロインが洗濯物を干しながら電話で話す姿を後ろから捉えた長廻しから映画は始まる。入り込んだ風によって微かに揺れる上着の裾と洗濯物。冒頭から炸裂するホウ・シャオシェンの魔術。ゆったりと濃密に流れる豊かな映画的時間に早くも酔いしれる。物語は恐ろしくシンプルだ。フリーライターの陽子(一青窈)が台湾生まれで日本国籍を持つ実在した音楽家・江文也について取材する姿を淡々と追っただけである。劇的なことは一切起こらない。いや起きてはいるのだけれど、それが表面に浮き出てくることはない。キャメラはただひたすら陽子の日常を静かに見詰めるだけである。しかしドラマ(これは陽子の妊娠や親の来訪といった出来事ではなく、そのことによって生じる内面の葛藤そのものを指す)は確実に存在し、多くはない登場人物一人一人の変化がジワリジワリと伝わってくるのだ。静的な映像に内在する動的な人間心理。ホウ・シャオシェンの繊細な小津へのオマージュ。両親をもてなすために陽子が隣人にお酒を借りにいく、といった思わぬパロディも出てくる。『珈琲時光』は多くを語らずに映像そのものが饒舌に観る者の心に響いてくる映画である。そして観終わった後に深い余韻を残してくれる映画だ。素晴らしく感動的なシークエンスが最後近くにある。友人であり、微妙な男女関係でもある古書店主人で鉄道マニアの肇(浅野忠信)が、偶然電車の中で眠っている陽子を発見し、そっと近づくと優しく微笑みかける。眠りから覚めた陽子が肇の存在に気付いて同じように優しく微笑みかけると、肇はそれには気付かず電車の音を録っている・・・。たとえ人への想いが交わらなくても、そう感じる心さえあれば、相手を必要だと思えるし、それが思いやり、人間同士の絆へと繋がっていくのだと思う。駅のホームに二人が並んで同じ方向を見詰める時、そこには喜びも哀しみも渾然一体となった世界があり、確かに小津安二郎の存在も感じられたのだった。ラストの御茶ノ水駅のロングショット長廻し。このシーンを観た竹中直人があまりの感動と嫉妬で身悶えする姿が目に浮かぶようである。ヴェンダースはどんな賛辞の言葉をこの映画に贈るのだろうか。

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