高校時代
H19(2007)年 作成

昭和31年4月、愛知県立津島商工高等学校商業科に入学。
「商工」の名の通り、商業科3教室・工業科2教科(染織科と機械科)の併学校。
身障者の小生は当然、商業科へ入学。卒業後は事務職に就きたい。
簿記・算盤・商業法規など、特殊学科が非常に多い。
其の分、基本学科の国語・数学・理科・社会・英語などにしわ寄せが、、
卒業後、公務員国家試験を受験した時の事だ。問題を見て驚いた。
問題の内容が全く判らない、と言うより「記号」に見えた。
此の時、初めて、基本単位の少なさを思い知らされた。

当時、愛知県は一宮市を筆頭に織物産業の全盛期。
日本全国から「就職列車」で中学を卒業した童顔の若者が大挙来た。
彼等の事を当時は「金の卵」と称したが、褒め言葉だったのか?

一年生は無我夢中で、時間が短く思えるほどだった。
だが、二年生に成って迷いが出た。学校が嫌になってきた。
中三の担任だった「鍵谷」先生に相談。高校生活で最も危険な時期だった。
鍵谷先生に愚痴を聞いて戴いて、気が治まったのか? 無事卒業出来た。
高校生活の中で、二学期は嫌だった。勿論、理由は有る。
二学期は運動会が有る。運動会の練習は体育の時間に行われた。
身障者の小生は、運動は苦手、と言うより人並に出来ない
練習時間は、運動場の隅で見物することになる。
それが、悲しく悔しく堪らなかった。運動会が呪わしく思えた。

三年進級直後の四月に修学旅行が有る。三泊四日の日程。
広島と金毘羅さん、残りの一泊の宿泊先が思い出せない。大阪?
広島は平和公園や安芸の宮島。
四国は金毘羅さん、「二十四の瞳」瀬戸内海の小豆島、栗林公園、、
当時の列車は、窓の開閉出来、停車時間にホームへ出られる駅も、
窓が開かない現在の列車よりも、時間はかかるが楽しみも多かった

修学旅行も終り、夏が過ぎ秋が過ぎ、冬が来て、、
年が明ければ、卒業の三月はすぐ其処、正味六十日だ、、
人生の中で最も短く感じる二ヶ月かも知れない、、
そして三月三日は卒業式、短くも永かった三年間だった
通いなれた道、景色、二度と来る事は無いのかも、、
三年間有難う、、感謝しながら、、お別れを、、
男で一つで育て上げ、父も感無料だった事で有ろう、、

  昭和33年4月1日 売春防止法発効、、所謂、赤線廃止。
  昭和33年11月1日 稲沢町から市に昇格。人口50,514人 面積48.45Km2