赤穂義士 雑学
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大石内蔵助良雄 おおいしくらのすけよしお(よしたか)
国家老、1500石(譜代)。討ち入りの指導者。享年45。
◇ あら楽し 思ひは晴るゝ身は捨つる 浮世の月に かゝる雲なし ◇
大石主税良金 おおいしちからよしかね
大石内蔵助の長男。
討ち入りのときは裏門の大将をつとめる。最年少の享年16。
◇ あふ時は かたりつくすとおもへども 別れとなれば のこる言の葉 ◇
原惣右衛門元辰 はらそうえもんもととき
足軽頭、300石(新参)。早くから江戸の急進派に同調していた。享年56。
◇ 君がため 思いもつもる白雪を 散らすは今朝の 嶺の松風 ◇
片岡源五右衛門高房 かたおかげんごえもんたかふさ
側用人・児小姓頭、350石(譜代)。浅野内匠頭切腹の際に最後の対面をした。
仇討ちを強硬に主張し独自の行動をとっていた。
堀部弥兵衛金丸 ほりべやへえかなまる(あきざね)
前江戸留守居、前300石、隠居料20石(譜代)。同志のうち最年長者。享年77。
◇ 雪はれて 思ひをとげる あしたかな ◇
堀部安兵衛武庸 ほりべやすべえたけつね
馬廻、200石。越後国新発田藩出身、旧姓中山。
父の代に新発田藩を放逐となり浪人していたが、
高田馬場の決闘での活躍により、堀部弥兵衛の婿養子となり、
赤穂浅野家の家臣となる。仇討ち急進派の中心人物。
討ち入りでは大太刀を持って大いに奮戦したと伝わる。享年34。
◇ 梓弓 ためしにも引けもののふの 道は迷はぬ 跡と思はば ◇
吉田忠左衛門兼亮 よしだちゅうざえもんかねすけ
足軽頭・郡奉行、200石役料50石(譜代)。
浪士の中では大石内蔵助に次ぐ人物として、これを補佐した。享年64。
◇ かねてより 君と母とにしらせんと 人よりいそぐ 死出の山道 ◇
吉田沢右衛門兼貞 よしださわえもんかねさだ
部屋住み。蔵奉行吉田忠左衛門の長男。享年29。
近松勘六行重 ちかまつかんろくゆきしげ
馬廻、250石(譜代)。討ち入りの際に負傷する。享年34。
間瀬久太夫正明 ませきゅうだゆうまさあき
大目付、200石役料50石(二代)。享年63。
間瀬孫九郎正辰 ませまごくろうまさとき
部屋住み。間瀬久太夫の長男。享年23。
赤埴源蔵重賢 あかばねげんぞうしげかた
馬廻、200石(譜代)。忠臣蔵では「徳利の別れ」で有名。享年35。
潮田又之丞高教 うしおだまたのじょうたかのり
郡奉行、絵図奉行、200石(譜代)。享年35。
◇ もののふの 道とばかりを一筋に 思ひ立ぬる 死出の旅路を ◇
富森助右衛門正因 とみのもりすけえもんまさより
馬廻・使番、200石(二代)。享年34。
◇ 先立し 人もありけりけふの日を 終いの旅路の 思ひ出にして ◇
不破数右衛門正種 ふわかずえもんまさたね
元馬廻・浜奉行、元100石(譜代)。
浪人していたが義盟に加わる。享年34。
岡野金右衛門包秀 おかのきんえもんかねひで
部屋住み。
忠臣蔵では大工の娘を通じて吉良屋敷の図面を手に入れる。享年24。
◇ その匂ひ 雪のあさぢの 野梅かな ◇
小野寺十内秀和 おのでらじゅうないひでかず
京都留守居番、150石役料70石(譜代)。享年61。
◇ 今ははや 言の葉草もなかりけり 何のためとて 露結ぶらむ ◇
小野寺幸右衛門秀富 おのでらこうえもんひでとみ
部屋住み。小野寺十内の養子。享年28。
木村岡右衛門貞行 きむらおかえもんさだゆき
馬廻・絵図奉行、150石(譜代)。享年46。
◇ おもひきや 我がもののふの道ならで 御法のゑんにあおふとは ◇
奥田孫太夫重盛 おくだまごだゆうしげもり
武具奉行・江戸定府、150石(新参)。仇討ち急進派の中心人物。享年57。
奥田貞右衛門行高 おくださだえもんゆきたか
部屋住み。奥田孫太夫の養子。享年26。
早水藤左衛門満尭 はやみとうざえもんみつたか
馬廻、150石(二代)。刃傷事件の第一報を江戸から赤穂へ伝える。享年42。
◇ 地水火風 空のうちより出し身の たどりて帰る もとのすみかに ◇
矢田五郎右衛門助武 やだごろうえもんすけたけ
馬廻・江戸定府、150石(二代)。享年29。
大石瀬左衛門信清 おおいしせざえもんのぶきよ
馬廻、150石(譜代)。享年27。
礒貝十郎左衛門正久 いそがいじゅうろうざえもんまさひさ
物頭・側用人、150石(新参)。享年25。
間喜兵衛光延 はざまきへえみつのぶ
勝手方吟味役、100石(二代)。享年69。
◇ 草枕 むすぶ仮寐の夢さめて 常世にかへる 春の曙 ◇
間十次郎光興 はざまじゅうじろうみつおき
部屋住み。間喜兵衛の長男。吉良上野介に一番槍、首級をあげた。享年26。
◇ 終いにその 待つにぞ露の玉の緒の けふ絶えて行く 死出の山道 ◇
間新六郎光風 はざましんろくろうみつかぜ
間喜兵衛の次男。養子に出されたが養父と折り合いが悪く、
江戸に出て浪人になっていた。願い出て義盟に加えられた。享年24。
中村勘助正辰 なかむらかんすけまさとき
書物役、100石(譜代)。享年46。
◇ 梅が香や 日足を伝ふ 大書院 ◇
千馬三郎兵衛光忠 せんば(ちば)さぶろべえみつただ
馬廻、100石(二代)。享年51。
菅谷半之丞政利 すがやはんのじょうまさとし
馬廻・郡代、100石(譜代)。享年44。
村松喜兵衛秀直 むらまつきへえひでなお
扶持奉行・江戸定府、20石5人扶持(二代)。享年62。
◇ 命にも かえぬひとつをうしなはば 逃げかくれても こゝを逃れん ◇
村松三太夫高直 むらまつさんだゆうたかなお
部屋住み。村松喜兵衛の長男。享年27。
◇ 極楽を 断りなしに通らばや 弥陀諸共に 四十八人 ◇
倉橋伝助武幸 くらはしでんすけたけゆき
扶持奉行・中小姓、20石5人扶持(二代)。享年34。
岡嶋八十右衛門常樹 おかじまやそえもんつねしげ
札座勘定奉行、20石5人扶持(二代)。享年38。
大高源五忠雄 おおたかげんごただお(ただたけ)
金奉行・膳番元方・腰物方、20石5人扶持。
吉良家出入りの茶人に接近して12月14日の吉良屋敷で茶会を聞きつけた。
俳諧をよくして俳人宝井其角と交流があり
「松浦の太鼓」の外伝が作られた。享年38。
◇ 梅で呑む 茶屋もあるべし 死出の山 ◇
矢頭右衛門七教兼 やとう(やこうべ)えもしちのりかね
部屋住み(譜代)。
父長助ともに義盟に加わったが仇討ち決行前に父は病死。享年17。
勝田新左衛門武尭 かつたしんざえもんたけたか
札座横目、15石3人扶持(譜代)。享年24。
武林唯七隆重 たけばやしただしちたかしげ
馬廻、15両3人扶持(二代)。
吉良上野介の養子吉良左兵衛義周と切り結び負傷させ、
炭小屋に隠れていた吉良上野介を討ち取った。享年32。
◇ 仕合や 死出の山路は 花ざかり ◇
前原伊助宗房 まえばらいすけむねふさ
金奉行・中小姓、10石3人扶持(二代)。
江戸で呉服屋を開き吉良屋敷を探索した。享年40。
貝賀弥左衛門友信 かいがやざえもんとものぶ
中小姓・蔵奉行、10両3人扶持(新参)。享年54。
杉野十平次次房 すぎのじゅうへいじつぎふさ
札座横目、8両3人扶持(二代)。享年28。
神崎与五郎則休 かんざきよごろうのりやす
徒目付、5両3人扶持(新参)。享年38。
◇ 余の星は よそ目づかひや 天の川 ◇
三村次郎左衛門包常 みむらじろうざえもんかねつね
台所奉行・酒奉行、7石2人扶持(二代)。享年37。
横川勘平宗利 よこかわかんべいむねとし
徒目付、5両3人扶持(新参)。
12月14日に吉良屋敷で茶会があることを調べる。享年37。
◇ まてしばし 死出の遅速はあらんとも まつさきかけて 道しるべせむ ◇
茅野和助常成 かやのわすけつねなり
横目付、5両3人扶持(新参)。享年37。
◇ 天の地の 外にあらじな千種だに もと咲く野辺に 枯ると思へば ◇
寺坂吉右衛門信行 てらさかきちえもんのぶゆき
吉田忠左衛門の足軽、3両2分2人扶持。足軽では唯一の参加者。
討ち入り後に一行から立ち退いている。討ち入り時は39歳。
事件後に幾つかの家に仕えた後、江戸で没。享年83。