エピローグ
愛する人に花束を
(愛は最高の奉仕とは、全くよく言ったものだよ)
注文通りルネが用意した、これ以上のものは見つからないくらい豪華な薔薇の花束を腕に抱えて、ローランは正午過ぎにガブリエルとの会食のためにいそいそと出かけて行った。
相も変わらず大天使一途なローランを慎ましげに見送りながら、ルネはふと、我と我が身の置かれた現状を2年前と比べてみる。
紆余曲折を経てお互いの本当の気持ちを確かめ合った2人だったが、オフィスではやはり上司と秘書という立場を崩さないことで合意したため、それまでの日常と特別何かが変わったというわけではなかった。
仕事モード全開のローランはルネ相手でも気の緩んだ態度は取らなかったし、ルネはルネで、そんなローランに対して、有能で信頼できる秘書として事務的に接するのが常だった。
それでも、一時期、もうガブリエルを真似た姿をする必要はないのだからと、ルネが髪の色を元に戻したことはあった。
もともとローランによって強制されたも同然のコスプレなのだから、ルネにはオリジナルに対する引け目こそあれ、何の愛着もない。
むしろずっとプレッシャーとなっていたこのスタイルから解放されれば、本来の自分を取り戻すことができ、さぞすっきりと心が軽くなるだろう。
そんなルネの目論見は、しかし、見事に外れた。髪だけかつてのような暗い色に戻してみたところで、昔の自分とは何かが決定的に変わってしまっていることに、ルネは気付かされたのだ。
鏡の中を覗きこんでも、あの懐かしい、オーヴェルニュの片田舎で育った純朴で内気な男の子はいなかった。
代わりにそこにいたのは、ガブリエルのように目立つ華やかさは決してないが、控え目な中に強い芯を感じさせる、抑制のきいた美しさを備えた青年だ。
(一体これは誰なのだろう? これまで見たこともない人だけれど、同時によく知っているような気もする…)
鏡に映る自分の姿に違和感を覚えるルネに的確な答えを与えたのは、他ならぬローランだった。
『俺にとっては、ブルネットのおまえも悪くないというくらいで、別にそんなに違和感はないぞ…? 何だ、おまえは髪の色さえ変えれば2年前と同じ自分に戻れると考えていたのか、ルネ? ここで働き始めたばかりの頃と比べるとおまえは随分変わったじゃないか…そのことに自分で気がつかないのか? 俺がおまえを作り替えただって? 馬鹿言うなよ、俺が趣味と実用を兼ねて野暮ったくて地味なおまえの外見に手を入れたのは確かだが、それはほんのきっかけに過ぎない。おまえが自分なりに成長しようと努力して、そうして少しずつ自信をつけていった結果今のおまえがあるんだ。そんな疑わしそうな顔をするなって…つまり、かつてのおまえは、自分が何者かも知らず、だから俺の言いなりになっていたような部分もあるが、今はそうじゃないということだ。ちゃんと心の芯の定まった人間を思い通りにすることは、俺にもできないのさ、ルネ』
まるで自分はほとんど関わっていないかのようにローランはもっとも意見を述べるが、実際彼の影響があって、今の自分があるとルネは思っている。少なくともローランの好みに合わせて磨かれたのは確かだ。その過程でルネが自分の我に目覚めて勝手に育っていったとすれば、それは彼の想定の範囲内のことではなかったのか?
(いずれにせよ、これが今のルネ・トリュフォーの顔ということだ。昔はもっと印象が薄くて地味だ地味だと言われて続けた僕だけれど、いつの間にか、こんなはっきりした個性が顔に出るようになっていたんだな。なぜかは、きっとローランの言うとおりだろう…昔はあいまいな存在でしかなかった僕の心の芯がしっかりと定まったからだ)
初めて気づいた自身の変化に、ルネは新鮮な驚きと満足を覚えた。しかし、結局その姿を保っていたのはひと月足らずの間だけで、結局ルネは再び髪を染めることにした。
奇妙な話だが、今では金髪の方が自分でもしっくりくるようになっていたし、髪の色に合わせてまた服や小物を変えるのも億劫だった。それならローランにとってより好ましい姿でいてもいいかと考え直したのだ。まめに手入れをしなければならないのは面倒だが、好きな男のために地道な努力をしている自分のことは結構好きだったりもする。
(初めは、僕の意志でそうした訳じゃなかった。ローランの好み通りに服も髪も変えられて、言葉遣いや立ち居振る舞いに至るまで修正されていったっけ…彼の期待に応えようと外見ばかりを気にしていた時期もあったけれど、そういう気負いがなくなった今はこの姿でいることに別に抵抗はない。大体髪や服に多少の手を加えたからと言って、僕が僕であることに変わりはないもの…自然な濃茶色の髪だろうが金髪に染めようが、それはやっぱり僕、ルネ・トリュフォーなんだ)
ただ、髪を金髪に戻したことも含め、事情を知らない外野には、ルネは依然として、傍若無人に我が道を行くローランのために自分を抑えて苦労しているように見えるらしい。
相思相愛の恋人同士ではあっても、基本的に人に譲歩しないローランは自分の我が侭を通し過ぎるし、ルネはそんな彼をほとんどの場合は許し、自分の主張を通そうとすることはめったにない。
どうして、あんな自己中心男に耐えられるのかとは、今でも時々友人や同僚から不思議がられる。
(別に無理してるわけじゃないんだけれど、いつの間にか自然にそうなっちゃったんだよねぇ。もうちょっと対等な恋人同士を意識してみたこともあったけど、むしろ慣れない気遣いをしあって疲れるだけで、結局僕とローランにとっては、こういう主従関係にある方が向いてるみたいなんだ。あの強引な暴君の一番傍に僕はいて、いつもさり気なく気遣いながら彼を支え、何かあれば身を呈して守り、そして、時には実力を持っていさめることもある。他の誰も僕ほどにローランの必要に応えることなどできやしないという自負が、今の僕を支えている。つまり、今のこの立ち位置は、僕にとっても結構居心地がいいんだな)
そんな2人だから、恋を語るような甘い雰囲気にいつもあるというわけではない。もっともそれは、お互いの心情を理解しながら、それぞれにふさわしい役割を暗黙のうちに演じ合っているだけとも言える。ふとした時に交わし合う眼差しによって、そのことを確認し楽しむことができるのも、確たる信頼によって2人が結ばれているからなのだ。
(僕にとって、愛することは尽くすこと…ローランがそうであるように、これは損な性分かもしれないけど、僕という人間は変えられない。だから、ガブリエルのようにあの人にちやほやと大切に扱われたいとは思わないし、あんな豪奢な花束もいらない。僕が彼にためと心を尽くしてすることをローランが喜んで受けて入れてくれるなら、別にいい。それに…)
そこまで考えて、ルネはふと仕事中であることも忘れてあまやかに笑み崩れそうになり、それを同僚に見られないよう俯くのだった。
(いつも忘れられっぱなしじゃ、さすがの僕でも切れるだろうけど、日頃の埋め合わせはちゃんとしてもらっているから、文句なんか言えないよ。普段は僕のことなど二の次にして他のことにばかり気を取られているローランも、2人きりの時はちゃんと僕だけを見つめて思い切り深々と抱きしめてくれる…そんな時僕は、これ以上は望めないくらいに幸せなんだと実感できるんだ)
そのローランがルネを振り返って構いだすタイミングというのが、どうやってルネの我慢の限界を測っているのだろうと思うくらいの絶妙さなのだ。放っておかれるのは腹立たしいが、甘やかされすぎると今度は落ちつかなくなるルネの性分を、彼はちゃんと理解しているようだ。
だから、なのかもしれない―。
ガブリエルとの会食に出掛けたきり、ローランが結局予定の時間になっても社に戻っては来ず、呆れ返る研修生のオリビエを尻目に午後のスケジュールのキャンセルや延期などの対応をする羽目になったルネは、さすがに少々つむじを曲げていた。
(大天使絡みでスケジュールをドタキャンするのは構わないけれど、それならそれで連絡の一つくらい入れろっていうんだよ!)
不機嫌のオーラをまとって黙々と仕事をこなすルネに、オリビエも怯えて必要以上に話しかけようとはせず、定時になるとお先にと飛ぶように帰って行った。
結果1人オフィスに残ったルネは、気の乗らない事務仕事を黙々と片付けながら、ローランに対する苛々を募らせていく
(結局、ローランは直帰か…どうせ、ガブリエルがまた何か我が侭を言いだして、つきっきりになっているんだろうな。もしかしたら、この頃、僕はあの人に甘い顔をしすぎただろうか? 久しぶりにがつんと一言言ってやるべきかもしれないな)
せっかく明日は休日だというのに、ガブリエルに先にローランを取られてしまったと溜息をつきながら、手早く書類を片付けたルネがデスクを立とうとした時、彼の携帯電話がころころと鳴りだした。
「は、はいっ」
ほとんど間髪いれず、ルネが携帯を取り上げ応対に出ると、案の定、耳の馴染んだ愛しい人の声が聞こえてきた。
(俺だ、ルネ…まだ社にいるのか?)
一瞬どう応えればいいのか分からなかったルネだが、ローランの声で問いかけられれば、ほとんど反射的に唇が開いて、不機嫌など微塵も感じさせぬ柔らかな口調で返していた。
「ええ、丁度今出ようと思っていた所です」
(そうか、間に合ってよかった。もうすぐ社に着くところだから、降りて来て、エントランスの前で待っていろ)
「ちょっと…僕の予定は空いているのか、確認もしないんですか?」
ルネは苦笑を浮かべながら、ちょっと意地の悪い口調で言った。
(…なんだ、先約があるのか?)
「いいえ、ご安心を…あなたが何の連絡もなく出て行ったきり帰ってこないものだから、仕方ないから柔道教室に寄って帰ろうと思っていたところです」
(それはすまなかったな…ガブリエルを優先しておまえに仕事上の面倒を押し付けたのは悪かったが、その代わり、今夜はおまえと過ごそうと思って戻ってきたんだぞ)
「今夜だけ、ですか…?」
ルネは携帯を肩で挟むようにして、空いた手で器用にバッグに私物を突っ込むと、タイムカードを切って部屋を出た。
(ああ、明日は休日だったな。特に約束はしていなかったが、俺はおまえと一緒にいたいと思っている…さて、おまえの都合がつけばいいのだが?)
どこか揶揄するような口調でローランが囁くのに、ルネは思わず顔を輝かせた。
「もちろんですよ、ローラン、あなたが誘ってくれなかったら、僕は暴れていたかもしれません。…それじゃ、また後で―」
うきうきと弾んだ声で携帯に向かって応えるルネを、廊下ですれ違った社員が胡乱そうに振り返っていく。
以前に比べるとかなりポーカーフェイスを身につけたとは思うが、油断するとつい感情が顔に出てしまうようだ。
(ローランってば、僕と一緒にいたいだなんて…ふふっ…)
ルネはこれ以上余計な人の目につかぬよう笑みを抑えて、素知らぬ顔で携帯を切りながら、エレベーターのボタンを押した。
(さあ、このビルを出たら、そこからは僕のプライベートな時間だ。もう真面目な秘書でいる必要もない)
エントランスの外に出たルネは、すぐに、道路脇に止められたローランの車を見つけた。
「ローラン!」
ルネが見ているうちに運転席のドアが開いて、ローランが降りてきた。
愛する大天使に振り回されてきた後なのだろうが疲れた様子はなく、ルネを迎えるために助手席側に回り、深い微笑みを浮かべながら待ってくれている。
その泰然とした立ち姿は、自分の目に薔薇色の色眼鏡がかかっていることを差っ引いても、うっとりするくらいに素敵で、傍を通り過ぎながらチラチラと熱い視線を投げかけていく女性達が少なくないのも頷ける。
(ふふん、お生憎様、どんなに憧れたって、この男は君達のものにはならないよ)
ルネは、女子達の熱い眼差しが降り注がれる中を堂々と胸を張って歩いていき、ローランの前に立った。
「何を笑っているんだ、ルネ?」
「ええ、ちょっと、世の中に対する優越感らしきものを感じていたんですよ」
訝しげに眉を寄せるローランの胸にそっと手を置き、ルネは軽く伸びをして、その頬にキスをした。
(この人の絶対的な主は別にいるのだから、厳密には僕だけのローランとは言えないけれど―それが何だ、今は僕だけを見てくれるし、それに僕の方ならいつだって彼のものだ)
後方で、凍りつくような人の気配や声なき悲鳴、落胆の溜息を感じながら、ルネはローランの腕の中で悪戯っぽく舌を出した。
「おまえにしては珍しく大胆だな」
「そうですか?」
ルネはとぼけてみせながらローランの胸に頬を寄せて、大好きな彼の匂いを鼻腔一杯に吸い込んだ。
「あれ…何か違う香りがする…?」
ローラン愛用のコロンの香りに混じって、甘くさわやかな花の香りをかぎ取ったルネは顔を上げた。その鼻先に、ローランが携えていた小さな花束を差し出した。
「スズランですか」
メーデー近くのこの時期花屋の店先でしばしば見かける花とローランの神妙な顔を、ルネは意外そうに見比べた。
「ああ、街角の花屋で目に付いたんでな。おまえにと思って買ってきた」
深い緑の葉に隠れるような可憐な白い花々からは、意外に強い芳香をが立ち上っていた。
「いい匂い…」
「森に咲く野生のスズランだからな…人の手で栽培されたものより、強く香るんだ」
実家の近くの森にも、水仙の季節が終わってしばらくするとスズランが群生している場所があったことを思い出しながら、ルネはその甘い香りを楽しんだ。
(そう言えば、いつだったか、水仙の花をもらったこともあったっけ…ガブリエルには人の手による贅を尽くした豪奢な薔薇の花束を贈ったローランが、わざわざ僕のために選んだのが、この野生のスズランなんだ)
決して目立つ華やかさはないが、その可愛らしい風情に似あわぬ強い香りを放って人を引き付ける森の花々は、ルネにとっては親しみのある、素直に受け取って喜べるものだった。
「どうした、気に入らないのか…? 見つけた途端、おまえのイメージだと思ってつい衝動買いしたんだが…この季節にスズランを贈るなんてベタすぎたかな…?」
ルネがじっと黙りこんでいたせいか、ローランは幾分心配そうに照れくさそうに問いかけてきた。
「あなたの趣味を考えると意外かなって思ったんです。こんなちっぽけな花、店で見かけても貧乏くさいって無視しそうな気がして…いいえ…」
幸せを祈って大切な人にスズランを贈るなんて、田舎ではよく見かける古くからの習慣だが、パリではそれほど一般的でもないように感じられる。ましてやローランのような洗練された都会の男が、恋人の機嫌を取るのに買い求める花とは思えない。しかし―。
「何だか故郷を思い出して懐かしい気がします…ありがとうございます、ローラン。このパリでは、野生のスズランは結構希少価値なんでしょう? 確かに、ベタではありますけど…」
ルネはにっこりと可愛らしく微笑んで、ほっと安堵した様子のローランの手から清楚なブルーのリボンのついた花束を受け取った。顔に近づけ再びその香りを深く吸い込んだ後、意味ありげな流し目を恋人に向けた。
「それにしても、あなたは僕の本質を正しく見抜いてるんですね、ローラン。こんなに可憐でかわいらしい花なのに、スズランって実は毒を持っているんですよ…知っていました?」
ルネの仄めかしに気付いたローランは、その唇に浮かぶ笑みを深くしながら、恋人の細い腰に手を回して自分の方に引き寄せた。
「よく知っているとも、ルネ…だから、可愛い外見に似合わず危険な花の取り扱いを二度と誤らないよう、俺は肝に銘じているのさ」
花束を持ったルネの手をそっと握り締め、その顔を覗きこみながら、ローランは笑いを含んだ声で囁きかけた。
「何しろ、一度病院送りにされたくらいでは諦めきれないほどに、俺はこのちっぽけで目立たない花に心底惚れているからな」
ルネの白い顔にぱっと鮮やかな朱の色が広がった。
さすがに、いきなりローランが投げたストレートな言葉を受け止めきれず、ルネは俯くが、その頬に手を添えて、ローランは逃がすまいとした。
「おいおい、ルネ、まだ俺に腹を立てているのか…?」
ルネは抵抗するふりを一瞬したが、すぐに素直になって、ローランの顔をまっすぐ見返した。
「そんな訳ないって知っているくせに…本当に、あなたは僕をうまく手の上で転がしていますよ、ローラン…おかげさまで、今日一日僕の中でつのりつのった不機嫌はすっかり吹き飛んでしまいましたから」
ルネが楽しげな笑い声をたてて言い放つのに、ローランは満足そうに頷く。
徐に身を引いたローランが、片目瞑って見せながら恭しく開けた助手席のドアの内に、ルネは軽い身のこなしで滑り込んだ。
「さて、おまえはどこに行きたい、ルネ?」
「うーん、そうですね…取りあえず、スーパーで買い物をして、あなたの部屋に行きたいです。ほら、先週途中まで見たDVDを見ましょうよ。僕も続きが結構気になってたんです」
「なんだ、おまえもフカサクにはまったのか?」
「正直言うと僕はクロサワやフカサクよりは、オシイマモルとか日本のアニメの方が好きなんですけれどね。…ねえ、今度『攻殻機動隊』のシリーズ、部屋に持ち込んでもいいですか?」
すっかり打ち解けた様子で言葉を交わし合う2人は、もはや上司と秘書の顔をしてはいなかった。
週が明ければ、何事もなかったかのようにオフィスに現れて、クールな態度で仕事をこなすようになる2人だが、少なくとこれから始まる休日の間は、熱い眼差しで見つめ合い、互いの腕の中で安らぎ、他愛のない冗談で笑いあう、ありきたりの恋人達に過ぎない。
「ところで、一体スーパーで何を買うんだ?」
ルネは、緊張をすっかりほどいてリラックスした様子でハンドルを操るローランを見つめながら、彼の艶やかな黒髪を指先で優しく撫でつけた。
「ビールとシードル、それから、晩御飯の材料を買うんですよ」
この間実家に戻った際に母親から伝授してもらった秘伝のレシピを思い起こしながら囁く、その顔は、胸の奥から溢れ出る愛情に光り輝いていた。
「大天使とランチをしたのなら、もうレストランの御馳走はいらないでしょう? 素朴で温かくておいしい、どんな美食にも負けない、僕の故郷オーヴェルニュの家庭料理を作ってあげますよ」