温かい皿
ローランの裏話


このエピソードは、やはりあまり本筋と関係がないからとカットしたものです。
ただ、ここに出てくる秘書役のルネ君は、また別の機会に活躍させたいと思っている人なのです。
ローランのことが本当に好きで、彼に尽くすことに体を張っている。ある意味、ローランに似ているのかな。
ルネ→ローラン→ガブリエル みたいな話も、いつか書いてみたいですね。





「ムッシュ・ヴェルヌ、では、明日のスケジュールはこのようにさせていただきます。今日は、お疲れ様でした」
 有能な秘書が労わりの言葉をかけるのを聞き流しながら、ローランはソファにどさりと腰を下ろして、ネクタイを緩めた。
 ローランが仕事のために一週間の予定で滞在している、ワインの産地として名高い街ボルドーにある、ロスコー家所有のホテルの一室である。道楽者の社長に代わり大車輪の働きで社員を引っ張るルレ・ロスコーの副社長は、あくびをかみ殺しながら、腕時計を見下ろした。まだ11時を回ったところだ。
「ルネ、悪いが、パリの本社に送る例の契約書をチェックしたいんだが…」
 ローランが脱いだジャケットを受け取りながら、まだ若い秘書はたしなめるような表情をうかべた。
「今夜は、もう仕事のことはお忘れになってください」
「うん?」
「あなたは少し働きすぎだと思います。今日のビジネス・ランチの席でムッシュ・サトウも、おっしゃっていましたでしょう。『あなたほどよく働く経営者は見たことがない』と。…本物の働き蜂の日本人にまで言われるようでは、かなり重症の仕事中毒ですよ」
 部下の立場でも結構言いたいことを言ってくるルネに指摘されて、ローランは苦笑いをした。
「別に仕事だけが人生なんて思っているわけじゃないさ。他にも楽しみたいことはあるし、その為の時間も持ちたいとは考えている」
「では、そうなさってください」
 ルネはすっと動いて、部屋の片隅のキャビネットから何やら取り出して持ってきた。
「おお」
 目の前のテーブルに置かれたDVDに、ローランは目を輝かせた。
「クロサワとフカサク。あなたのお好きな日本映画のDVDを探しておきました。今夜は、お酒でも飲みながらリラックスして映画でも見て、それからぐっすりお休みになってください」
「気が利くな」
 ローランは、迷った挙句、取り合えず黒澤明監督の『乱』を見ることにした。日本びいきのガブリエルの影響で見始めた日本映画やドラマに、ローランは今やすっかりはまっている。かなりのマニアだと言えるだろう。
 特に時代劇やヤクザものが大好きだ。日本刀を振り回しての切ったはったは、すかっと爽快感があって、仕事上でのイライラ解消には最適なのだ。
 ルネはローランのためにDVDをセットし、それから、ルームサービスに電話をしてブランデーを頼んだ。
 その様子をローランは目を細めて眺めていた。ルネはローランが自分で面接して秘書に採用した青年だ。もちろん仕事もできるが、姿も物腰もローランの好みにぴったりだった。いや、もともとはオーヴェルニュの田舎から出てきた垢抜けない青年を、ローランが自分の好みにあうように手をかけてここまで磨きぬいたのだ。
 ローランは別に仕事が死ぬほど好きな訳ではない。人生には他にも多くの楽しみがあって、それを味わいつくすのが生きることだと思っている。
「あっ…」
 ルネは、ルームサービスが運んできたブランデーと氷のいっぱい入ったアイス・バケットをのせた盆をテーブルの上に置いた。
 その様子を追っていたローランの目がきらりと光った。
 ルネの手首をローランは捕らえ、自分の方に引いた。不意をつかれた青年は、はからずもローランの膝の上に座らされる格好となった。
「ムッシュ…」
 当惑し青い瞳を揺らすルネの顎を指で捕らえ、ローランはじっと覗き込んだ。
「俺にこうされるのは、嫌じゃないだろう?」
 ルネはたちまち頬を紅く染めて、視線を逸らした。しかし、ローランの手を振り払って逃げようとはしない。
「あなたはお疲れです。こんなことをして余計な疲れをためることは、明日の仕事にも差し障りますし」
 弱々しい声で、それでも一応反論らしいことを言うルネの唇を、ローランは指先で軽く押さえた。
「俺に仕事のことを忘れろといったのは、おまえだぞ。酒も映画も悪くないが、どうせなら、おまえ自身が俺を楽しませてくれないか?」
 ルネは、慄いたように震えた。依然として応えることをためらうようにそむけられているその顔を、ローランはじっくり眺めた。
 品のいい白皙の美貌を縁どる柔らかな蜂蜜色の髪、空の色の瞳、ふっくらと官能的な唇。幾分ころっとして愛嬌がある鼻の形だけは違うが、その他の部分はガブリエルに実によく似ている。
 この世で最も愛するあの天使、ガブリエルの傍を離れなければならない時は、同じ顔をしたスペアでもいいから、ローランは傍に置いておきたいのだ。
「ムッシュ・ヴェルヌ…」
「ローランと呼べ」
 ルネはおずおずとローランを見た。美しいピンク色にうっすらと染まった顔には、不安ともに期待感がうかんでいる。
 恥じらいながらローランの肩に手をかける様が、また実にいい。ガブリエルは決してローランにこんな可愛い表情など見せることもないし、こんな支配的な態度を許しもしない。
 だが、たまには主従逆転の錯覚を楽しむの悪くはない。
「ローラン…」
 鼻にかかったような甘い声がそう囁くのに、ローランは緑色の目をすうっと細めて、笑った。
「ボルドー滞在の最終日は、オフの予定だ。郊外をドライブでもしようかと思っているんだが…ルネ、おまえも一緒に来い」
 否とは言わせない口調でローランが命じると、ルネはこくんと頷いた。
 実に従順な青年だ。外見が外見なだけに、屈折した嗜虐心をかき立てられる。
「キスをしろ」
 ルネはようやく意を決したらしい。ジャケットを脱いで床の上に落とすと、ローランの頭に手をかけ、伸び上がるようにして彼の唇を唇で覆った。
 キスの仕方は上手とはまだ言えないが、それもこれから仕込めばいいことだ。ローランは喉の奥で低く笑いながら、ルネのネクタイを素早く解いて、シャツのボタンを一つずつ楽しみながら外していった。
 そうそう、こんな楽しみがあるからこそ、人生は素晴らしい。
 ローランはルネの体を少し押しやると、彼のシャツの下から現れた滑らかな肩の上に唇を押し当てた。ついでに軽く歯を立ててやる。
「ローラ…ン…!」
 ルネは体を痙攣させ、ローランの体にしがみ付いた。仕事上の上司にあたるローランに、ルネは普段は決して甘ったるい媚態など見せない。もともとが真面目なのだ。だが、禁欲的な態度とは裏腹に実に感じやすい体を持っている。この青年を秘書に雇って本当によかったと、ローランは自らの快挙にほくそえんだ。
「可愛い奴だ」
 熱くなった耳に息を吹きかけるように囁いて、ローランは体を入れ替え、ルネをソファの上に押し倒した。
 どうする、このままいくか? それとも、隣の寝室に移動するか?
 ルネは既に自分で歩くのもおぼつかない様子だし、いくら大柄なローランでも、細身とはいえ立派な成人男性を寝室まで抱えていくのはちょっと面倒くさい。
(よし、まずは手始めにここで一回…)
 舌なめずりして、もうどうにでもしてください状態の秘書にローランが襲いかかろうとした、その瞬間、彼の携帯電話の着信音が部屋に鳴り響いた。
 恐ろしくも厳かなバッハの『トッカータとフーガニ短調』に、浮気現場を目撃された人のようにローランは硬直し、ルネはひいっと鶏がつぶされるような悲鳴をあげた。
 ローランの絶対的君主からの緊急コールだ。
(くっそおぉぉっ!)
 よりにもよって、どうしてこんなタイミングでかかってくるのだ。
 毎日毎日仕事に追われ、身を粉にして働いているのだから、少しくらい自由を謳歌する時間をもらっても罰は当たらないはずだ。
 そう、別に好き好んでいつも忙しい訳ではない。たださえ少ない余暇を、こうしていとも簡単に潰す奴がいる。
 ローランは、せっかくの楽しみを邪魔された怒りと口惜しさに頭をかきむしながら低く唸ると、テーブルの上でバッハを鳴り響かせているにっくき携帯電話をにらみつけた。
 荒々しく携帯を引っつかみ、吼えるように応対に出た。
「ガブリエル!」
 氷そのものの冷たい声がそれに答えた。
(遅い)
 『パブロフの犬』のように、ローランは反射的に答えていた。
「すまん」
 とっさに軽いめまいを覚えて、ローランは眉間を指先で押さえた。少しくらい電話に出るのが遅れたくらいで、何故責められなければならないのだ。謝らなければならないのだ。
 仕事でもプライベートでも、独立独歩、唯我独尊、恐いものなしのローランだが、ガブリエルにだけは昔から頭が上がらなかった。親戚とはいえロスコー家はローランの家より遥かに格が上で、4才年下のガブリエルが生まれた時から、ローランは彼の遊び相手兼お守り役であることを運命づけられてしまった。
 ローランはずっと昔からガブリエルに惚れていたが、恐れ多くて自分からは手が出せない相手でもあった。ガブリエルにとってローランが『都合のいい男』であることは、間違いない。たまに恋人めいた関係になることもあるにはあったが、それはガブリエルが次の恋人を見つけるまでのつなぎのようなものでしかなく、ガブリエルはローランとのべたついた雰囲気を長引かせることを好まなかった。
 下克上など、所詮夢のまた夢。子供の頃に刷り込まれた習性は、そう簡単には克服できない。
 一気に上がった心拍数と血圧を下げようと、ローランは大きく深呼吸をした。
「どうかしたのか、ガブリエル…?」
 気を取り直してローランが尋ねると、ガブリエルはどんよりと落ち込んだ口調で答えた。
(恨み言を聞いてください)
 恨み言? この頃は、毎日が幸せで楽しくて仕方がない様子だったガブリエルがいつになく暗い口調で言うのに、ローランは眉間に深いしわを寄せた。
 これは長い話になりそうだ。
 ちらりとソファの上を見やると、ルネは乱れた姿で息をつきながら、まだ呆然としている。
 ローランが手振りで出て行けと示すのに、ルネはぎゅっと唇を噛み締めて、はだけられたシャツを直し、よろよろと身を起こした。
 可哀想だが、仕方がない。スペアと本物、どちらが大事か、別に答えるまでもないだろう。
 後でなだめてやった方がいいだろうが、それはまた別の話だ。
 意気消沈の秘書が自制心をかき集め、ぎこちない動きで部屋から出て行くのを見送った後、ローランは改めてソファに座りなおした。
「何があったんだ?」
 心からの心配が溢れている自分の声に、ローランは少し複雑な思いがした。
「シンジのことです」
 大方予想のついていたこととはいえ、ローランはかなりむかついた。
(またか)
 あの乳臭い日本の小僧ごときのために、何故、ガブリエルがこんな沈んだ声を出さなければならないのだ。おまけに、今夜は自分の楽しみまで台無しにされたのだ。
 ローランは、自分で作ったブランデーのオンザロックをを味わいながら、ガブリエルの話に付き合った。
 ガブリエルは、ローランに対しては、自分の影であるかのように何でも気安く打ち明ける。だから、真志との間であったことも、ほとんどローランには筒抜けだ。
 傍から見ていると、しようもない愚痴やのろけにつき合わされているように見えるらしい。忠実なルネでさえも、ローランを振り回すガブリエルの我が侭にはあまりいい顔をしない。しかし、それも信頼の証かと思えば、ローランは嬉しいのだ。
 今夜も、つけっぱなしの黒澤の映画が終ってもまだ続くくらいの長い恨み言に悪酔いしそうだったが、ローランはいつの間にかすっかりガブリエルの話にのめりこみ、本気で心配するようになっていた。
 もしかして、こういうのを『洗脳』と呼ぶのだろうか。
(あの身の程知らずの馬鹿者め)
 ようやくガブリエルの長電話から解放された時、ローランの中には、真志に対する腹立たしさが煮えくり返っていた。
(極東の島国から出てきた田舎者の黄色いサルの分際で…あれほどガブリエルに目をかけてもらいながら、それを裏切るようなまねをするとは…許せん)
 まるで、悪いのは全て真志だとばかりに、ローランは彼に腹を立てていた。
 だが、それ以上にガブリエルの心痛の種を取り除かねばという使命感に駆られていた。ガブリエルの幸福を守り、その望みを叶えるために尽くすことが、ローランにとっては至上の愛の証だ。
(パリに早急に戻る必要があるな)
 ただでさえ過密な明日からのスケジュールを頭の中で組みなおしながら、ローランは、この世で最も愛する相手にこき使われることの奇妙な快感を覚えていた。



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