ジャファリー アウシさんが 亡くなったという 連絡をもらったのは、2008年もあとわずか12月にはいった日でした。
一瞬 よく意味がわからなかった。

つい1ヶ月前に、東京に車を 飛ばして イベントをやるというので、会いに行ったばかりだったから・・・・・・・・

インフォラダーっていう 花で大きな絵を作るもので、その原画を ジャファーリーが書いているというものだったのです。

「残念だけど 名古屋に 行けなかった、来週には 日本を離れるんだ。 また来るけれど、奥さんも長くはいれないから」と言う電話が ジャファーリーから 入った。
東京は遠い どうしようか悩んでいたが、「よし 車でゆっくり行ってみるか」と突然行くことを決めた。
今思えば、突然 行かなくては、思った。いろいろお世話にもなっていたし、顔を見るだけでもいい。

2007年に 私はタンザニアに行きました。そのとき 突然 訪ねたのにもかかわらず、とても 快くお家に泊めてもらって、いろいろ連れて行ってもらったり、彼の絵を破格で譲ってもらったり、ずいぶんお世話になりました。(タンザニア旅行記参照)
そのとき 来年 日本にギャラリーを作るために、奥さんと行くよ。
そのとき会おうと 約束して、日本で待っていました。

タンザニア人が入国するには、日本人の身元保証人がいるから、奥さんと  二人分書いてくれないか?と 私は 快諾し 後日 記入してエアメールで送ったのでした。
早く 名古屋に来ないかなぁ と 心待ちにしていました。6月に「今 日本に 居るんだよ 」と 私の携帯に懐かしい 声が聞こえました。
 しかし、忙しいかった彼はなかなか、名古屋で足をとめることができなかったようです。
とうとう 愛知万博の跡をもう一度見たいといっていたが、見ることなく 逝ってしまいました。

私が ジャファーリと会ったのは、2005年の愛知万博でした、私は合計20回以上 万博に通ったものでした。
その中でも アフリカや中年米のパビリオンはとても魅力的で、旅心を駆り立てたものでした。じめじめした 梅雨真っ只中の6月になったころから通いだしました。

最初は ティンガ ティンガと言う 絵のことを知りませんでした。少しだけ テレビで見たことがる程度で、万博会場のテーブルで、大きな体のアフリカの人が、黙々と ペンキを塗っているのに 目が止まりました。
つやつやした ペンキを 器用にフリーハンドで 枠を書いていき、動物のシャドーを書き込んでいました。
バックには、グラジエーションの色が、(これはジャファーリがティンガ ティンガに使い出した手法と言われています)きれいに ツルーッ っていう感じで書いていきます。

大きな体を 小さくかがめて ほかの日本人の来場者の人も 興味津々です、しかし、それが 売り物なのか ただパホーマンスで描いているのかわからない様子、「きれいな絵だねぇ」って通り過ぎていきます。

まだ 多くの絵が描ききれていないので、(何枚も同時に いろいろ絵柄を描いていく、ペンキが乾かないと 次の色が乗せれないから)見ている日本人も素通りしてしまうのです。

私はいろいろ聞いてみることにしました。いくらなの?から始まって、何枚もあるの?日本語は全く話せなかったけれど、何とか 日本語で、宣伝文を作ってあげるから、いろいろ教えてね。この絵のこと って話をするようになりました。

タンザニアでは キリマンジャロの近くに住んでいるんだ、今回は日本に6ヶ月いるんだよ、その後は、東京や東北にも行くんだ など
シャイなジャファーリーは ポツリポツリ 話していました。

お決まりは 夕方 二人で外に出て ビールを 1本飲んで 涼む事でした。
いろいろ 少しずつ話をしました。
「そのうち タンザニアに着たら 家においでよ、とてもいいところだよ」って 私も まさか 本当にいけるとは 思ってもいませんでしたが、行けたらいいなぁ 位でした。

タンザニアのことは 旅行記に書いたような感じです。
偶然と ジャファリーとアルーシャで連絡が取れ、その後 お世話になったのです。
ジャファーリーの 家には 万博のときに わたしが作った、ポップという宣伝用の説明文が 写真と一緒に 大切にアルバムに綴じてありました。
こんなところにも、人の気持ちを大切にして、ビラ1枚でも 大切に持って帰ったんだ と思いとても 嬉しかった。

2005 愛知万博会場にて

2008 晴海トリトンスクエアーにて

アルーシャのお店

ペンキ屋さんにて
2007

キリマンジャロが見える、この町をすごく気に入っていた。
今回も長い間、日本に滞在して一度帰国し、また すぐに戻る予定でした。
そんな折 アルーシャで心筋梗塞を起こし、病院に運ばれ 近い内に大きな病院に移る予定でしたが、介抱の甲斐なく亡くなってしまいました。48歳 まだまだ 若すぎる。

いろいろ 夢の半ば、日本に お店を出す準備もしていて、タンザニアではサファリツアーの会社も作りたい、「4駆を買って日本人を案内するんだ」そして 画家の学校を作って 若いティンガ ティンガ 画家を 育てて と、夢を語っていました。

息子さんも ティンガティンガを描いていると言っていました。

ポツポツ語った ジャファリーがもうこの世にいないと思うと とても悲しい・・・・・・

残された人たちのことも 気になるだろう でも ゆっくり 安らかに・・・・
ご冥福を お祈りします。

ありがとう ジャファリー そして さようなら