乾清花苑  太白廡  略伝引得

朱柳橋
 来泊清人、文人書家、朱文公の後裔という。商船得泰号に乗船中の文政9(1826)年、風波に流され清水港へ寄港。この船を長崎に送るために60日乗船した野田笛浦と筆談。この時朱子は財副、平湖の人で48歳。また「諱潜發、号慕亭、任山西福建邑令、擢陞州牧、賢人文公後裔、至不肖棄官行賈、可慙之至」と答えている。また「海紅園小稿」のために井序文を与えている。文政11、江芸閣とともに島琴陵の「瓶花図」に賛を寄せた。