乾清花苑  太白廡  略伝引得

吉嗣家
 吉嗣家は代々、天満宮の神職で、絵師になった楳仙以降、三代それぞれが梅、天拝山、四王寺の山の鼓山と太宰府ゆかりの号を名乗った。梅仙は明治維新前に一時、太宰府に居た三条實美から「古香書屋」の号を賜る。その後拝山の時明治44年に建て替えられ、鼓山の没後、昭和42年から「古香庵」という懐石料理店となったが、平成28年いっぱいで閉店となった。その後分散型ホテル「HOTEL CULTIA 太宰府」の一棟として利用されることとなり令和元年10月にオープンしている。

〇天満宮神職---楳仙---拝山---鼓山---〇---文成
吉嗣楳仙(1817〜1896)

 
文化14年生まれ。家は大宰府天満宮の神官。名は寛。別号に弄春園がある。梅仙、梅僊、楳僊などとも記した。はじめ斎藤秋圃に学び、のちに諸家に画を学んだ。明治25年に第1回内国絵画共進会に出品。絵馬の制作も多く、筑紫、筑豊地区を中心に100点以上が現在も残されている。明治29年、80歳で死去した。(UAG美術家研究所 )

吉嗣拝山(1846〜1915) 

 弘化3年大宰府生まれ。吉嗣楳仙の長男。名は達太郎、字は士辞、蘇道人。別号に古香、獨臂翁、獨掌居士、左手拝山がある。父・楳仙の豪放な画道生活のため家は貧しく、13歳で六度寺に入り苦学した。この間、書は宮小路浩潮に教えを受けたとも伝わっている。のちに本田竹堂を師として岩潭書塾に入った。19歳の時に日田咸宜園に入門し3年余り漢学を学び、その後京都に出て中西耕石に入門した。明治4年、大風による家屋倒壊により右腕を切断、文墨で立つ事を決意するとともに右手の骨で筆を作ったと伝わっている。
 明治10年ごろ清にわたり画法を研究。山水・花鳥画を得意とし、とくに芦雁図にすぐれた。門人に藤瀬冠邨、岩崎天外、守田洞山、入江之介らがいる。大正14年、70歳で死去した。(UAG美術家研究所 、kotobank)


嗣拝山用印譜


古皀

□□□似氷清

□□

拝山

拝山左手

 

暢懷冊
吉嗣鼓山(1879-1957)
 明治12年大宰府生まれ。吉嗣拝山の長男。本名は慶左右、字は士瑞。居を古香書屋と称した。県立中学修猷館を卒業後、岡山医学専門学校に進むが病気のため中退、自宅療養中に詩作と画業の道を志し、父・拝山に詩書画を学んだ。櫛田神社、筥崎宮、大宰府天満宮などに作品を奉納した。昭和32年、79歳で死去した(UAG美術家研究所 )。

拝山所用印譜 1918