乾清花苑  太白廡  略伝引得

米谷春里(1832〜1890)
 天保3年、原口村生。名葆。長じて広瀬淡窓の咸宜園で学ぶこと5年。年月を経たずして都講を務めるまでになった。学成り、28才のとき帰郷、私塾菁莪堂を開いて郷土の子弟の教育に尽力した。明治19年には東京に遊学。漢学者の川田甕江、厳谷一六らの文人と交わりその名をいよいよ高めた。明治23年、東京で没した。59才であった。子孫は戦前疎開。
 明治44年門人たちによって現うきは市浮羽町三春に顕彰碑が建立された(現存、お寺めぐりの友ほか)。