乾清花苑  太白廡  略伝引得

 
 
〇依田貞剛━━━┳貞幹━━━━┳貞種(秋圃)
            ┃         ┗貞枝
            ┗貞述(學海)━━━美狭古   
 江戸詰めの佐倉藩士。祖は甲州の武士。家康に召し抱えられ,、その後、徳川家の家臣で譜代大名の堀田正俊の時代から仕えた。貞剛は比較的若くして亡くなり、貞幹が継ぐ。この人はなかなかできる人で、藩主の信任も厚く家老を務めている。
依田秋圃(1885〜1943)
 明治〜昭和の歌人。 明治18年1月8日深川生れ。本名依田貞種、東京帝大農科大学林学実科卒、林務官となり名古屋、東京に勤務。伊藤左千夫に師事して「馬酔木」「アカネ」「アララギ」などに歌を発表。のちアララギを離れ、大正10年「歌集日本」を創刊、13年廃刊、「あけび」「武都紀」などに歌、随筆を発表した。没年昭和18(1943)年12月3日歌集に「林間歌集」「山野」「渓声」、文集「山と人とを想ひて」「山にて聞いた話」「山村の人々」「山村旅情」などがある。
依田學海(1834〜1909)
 幕末・明治の漢学者、演劇評論家。下総佐倉藩士。天保4年11月24日、八丁堀別邸の長屋に生まれる。維新後は太政官修史局編修官、文部省少書記官などを歴任。明治18年退官後は演劇改良運動にたずさわり、9代市川団十郎らを後援・指導して劇界の啓蒙につとめた。劇作に「吉野拾遺名歌誉」など。明治42年12月27日死去。77歳。名朝宗。字は百川。
 墓碑は谷中霊園。
依田美狭古
 學海の長男。第一高等中学校医学部(現・千葉医科大学)進学後病気療養となり、海軍史の編纂に携わった。編に「精神教育参考書」、著に「学海遺稿文目」