乾清花苑  太白廡  略伝引得

山田家
〇山田松齋━━━┳省助
                ┗種村順次郎 
山田松齋(1809〜1896)
 桑名藩士。のち津藩に仕える。旧姓水元。名直行、字公道、通称重助、松齋は号。文化6年奥州白川生。父に従い桑名へきた。学問に優れ文武両道を極めた人。17歳のとき父を失い、22歳で会計吏となるも感じるところあり致仕。天保6年津へ移住して家塾を開く。
 後に山田と改姓して、津藩に仕え藩校教官となり兼ねて祐筆会計司を兼帯。齋藤拙堂、猪飼敬所ら津藩の儒者と交わる。安政5年家を息省助にまかせ、全国を旅し各地の文人と交遊した。是より先時勢を見て江戸に泰西の兵法と砲術を学んだ。美濃では学校を起こして壮丁(兵士)を教えた。明治2年には、鈴鹿郡に学校を起こし、子弟は500人を越えたという。津に戻って、また開達学舎を開き教えた。
 作詩は一万首に及び、四天王寺の境内に詩稿塚を作って埋めた。明治29年88才で没するまで50年間教育にたずさわり、旧文部省や津藩侯より表彰をうけた(三重先賢傳、桑名人物事典ほか)。
 撰・書碑に「不斷櫻」碑、鈴鹿 子安観音、慶應2。「櫻神社跡之碑」 四日市市桜町、明治2。


夫道一夫巳

先憂後樂

八十八翁
十八公齋
氣凛七絶 「詠鶴」1896