乾清花苑  太白廡  略伝引得

富樫氏 藤原姓

富樫(鬼島)廣蔭(1793〜1873) 

 江戸後期〜明治の国学者。寛政5年生。本居大平・春庭に師事。はじめ富樫姓、,嘉永3年桑名の三崎春日社(現桑名神社・中臣神社)神職の鬼島氏をつぎ、のち富樫に復姓。語法の研究をすすめた。明治6年8月24日死去。81歳。紀伊和歌山出身。本姓は井手。号は言幸舎。著作に「古事記正伝」など(kotobank)。
 文政5年に本居大平の嗣子となったことがあったが翌年多病を理由にこれを辞して、曾祖母の富樫家を継いでいる。落合直純はその門下。墓は大福田寺。

富樫廣厚(1826〜1873)

 通称和泉、実は桑名郡多度神社神主小串重穂の仲子。幼少より学を好んで富樫廣陰について国典を修めて造詣が深かった。また和歌に長じて書を能くした。師の廣蔭は大いに期待し、鬼島氏を襲がせるため長女いづ子に配して富樫氏を継承させた。安政4年鬼島氏を男廣睦に譲り、再び富樫氏に復することとなり、廣厚は常に膝下に持してその事業を補佐して斯道の普及務めた。明治維新に桑名藩帰順の時には藩家のために尽くした。のち藩命により松平定信公伝記編修の一員として、仮名遣い訂正にあたった。廣厚は人となり和順にしてよく談じたので、人皆な親しんだという、明治6年4月30日養父に先立ち歿す。48歳(続三重先賢伝)
 門人に阪正臣がある。

「祝言」和歌短冊(旧蔵)