乾清花苑  太白廡  略伝引得

烏亭(立川)焉馬   
初代(1743〜1822)
 本名中村英祝、通称和泉屋和助。戯号として、鑿釿言墨金(のみちょうなごんすみかね)、
市川団十郎にちなんだ立川談洲楼などと名乗った。祖父の代から江戸本所相生町に住まいし、家業は大工。焉馬自身も生涯を通して大工の棟梁で、幕府の小普請方もつとめた。また自宅では、足袋・手袋・煙管なども商った。俳諧・狂歌・浄瑠璃・戯作・落咄など多方面で才能を発揮し、広い交友関係もあって、文壇に大きな勢力を築いた。門下に柳亭種彦、式亭三馬。天明六年以降、新作の落咄を披露する「咄の会」を主催、江戸落語中興の祖と呼ばれる。また、市川団十郎の熱狂的贔屓であり、七代目団十郎の贔屓団体である〈三升連〉を組織した。五代目団十郎とは義兄弟の契りを結ぶほどの間柄であり、市川家の後ろ盾となってもり立てた。代表作に『伊達競阿国戯場』(合作)、『碁太平記白石噺』、『花江都歌舞妓年代記』など(長唄メモ)。 
二代目(1792〜1862)
 本名山崎甞次郎。別号が松樹庵永年。江戸南町奉行を勤めたが、遊蕩のため弟に家督を譲ったとされる。多趣味な人物で、戯作を好み、近松門左衛門や蓬莱山人帰橋など著名な文人の二代目を次々に襲名、文政十一年(1828)に二代目焉馬を襲名し、立川流家元と称して落語界にも進出した。相撲を好んで行事となり、式守鬼一郎を名乗ったほか、猿猴坊月成の名で春本を多作した。花咲一男編『雑俳川柳岡場所図絵 拾遺』によれば、深川の石場に居住したという。長唄「巽八景」の作詞者(長唄メモ)。