鹽谷家 | ||||||
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※桃蹊は実は大舘村野氏。歴代の墓は谷中天王寺墓地。 | ||||||
鹽谷宕陰(1809〜1867) 江戸後期の儒者。文化6年4月17日生。昌平黌にはいり、また松崎慊堂にまなぶ。慊堂の薦めで遠江浜松藩主水野忠邦につかえ、忠邦の老中就任後はその補佐にあたり、のち幕府の儒官。ペリー来航に際し、海防の策を論じた。慶応3年8月28日死去。59歳。江戸出身。名世弘。字毅侯。通称甲蔵。別号に九里香園。著作に「籌海私議」など。「與十束翁書」は『記事論説高等習文軌範. 下』に収録。 |
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鹽谷簣山(1812〜1874) 江戸後期の儒者。文化9年5月10日生。塩谷宕陰の弟。塩谷青山の父。医学をおさめ、のち松崎慊堂に儒学をまなぶ。老中水野忠邦に登用され、文久3年幕府儒官、慶応2年甲府徽典館督学となった。明治7年9月10日死去。63歳。江戸出身。名誠。字誠之。通称量平、修輔。別号に晩翠園。著作に「西遊簿」「叢語」など。 |
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青山 鹽谷時敏(1855〜1925) 明治・大正期の漢学者。名時敏、字修卿。塩谷宕陰の嗣子となって後を承けた簣山(宕陰の弟)の子として、安政2年1月27日江戸青山に生まれて、のち家学を継ぐ。昌平黌に学び、維新後芳野金陵、島田篁村、中村敬宇らに学んだ。明治8年内閣修史局に出仕するが翌年辞し、17年再び修史局に戻る。22年より第一高等中学校教授となり、大正9年まで勤めた。大正14(1925)年2月2日没。著書に「青山文鈔」「文章截錦」「漢文類別」などがある。 |
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節山 鹽谷温(1878〜1962) 明治〜昭和の中国文学者。明治11年7月6日生。塩谷青山の長男。大正9年母校東京帝大の教授となる。中国近世の戯曲、小説を研究し、元の「全相平話」や明の「三言二拍」の再発見で知られる。昭和37年6月3日死去。83歳。東京出身。字士健。号節山。著作に「支那文学概論講話」、訳書に「国訳元曲選」など。 書丹碑あり |
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