乾清花苑  太白廡  略伝引得

村瀬秋水の一族 (UAG美術家研究所)
村瀬秋水--- 雪峽--- 藍水
 美濃の南画壇にあって影響力のあった南画家のひとりに村瀬秋水がいる。村瀬秋水は、美濃上有知の造り酒屋で庄屋を務める村瀬敬忠の三男として生まれた。長兄は頼山陽門の儒学者・村瀬藤城、次兄の村瀬立斎は尾張藩医をつとめた。秋水は兄の藤城を助けて家業に従事するかたわら終生画作に励んだ。秋水の画技は、子の雪峡、孫の藍水、雪荘、そして従兄弟の子の太乙にも大きな影響を与え、一族の画系に指導的な役割を果たした。
村瀬秋水(1795-1876)
 
寛政6年武儀郡上有知村生まれ。名は清・徴、字は世猷、通称は真吾、太六、平三郎。別号に韓江がある。幼い頃、張月樵について学び、30歳の時に野呂介石に入門した。さらに、中国南宗画を手本に独学で南画を学び、兄の藤城が没した後は分家して山中に隠退し、20年間郷里を出ずに画業に専念した。63歳の時に『南画問答』を発表し、73歳の時には自らの人生を振り返って『己未秋日作草稿』をまとめるなど数多くの著作を残した。1876年、82歳で死去した。

山水

村瀬雪峡(1827-1879)
 
 文政10年、または天保3年武儀郡上有知村生まれ。村瀬秋水の長男。名は東作。画は父・秋水に学んだ。江戸、京都、大坂で経史詩文を学び、帰郷して伯父・村瀬藤城を助けて門下生を教えた。明治12年死去。

村瀬藍水(1861-1892)
 
 文久元年武儀郡上有知村生まれ。村瀬雪峡の長男。名は緒、字は彫弓、通称は岸太郎。はじめ半山と号した。村瀬秋水、雪峡に師事した。明治13年名古屋に出て佐藤牧水の漢字塾に入り、明治19年から清国に渡り遊歴して名声を得たという。明治23年の帰国後は中央画壇への進出を目指して上京したが、明治25年、32歳で死去した。

雪峽
瓦于山

三保松原圖

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