杭州の人で長崎に往来した商船長。日本で言えば二・三万石の大名にも匹敵するような商人頭で、なかなかの教養人。日本語にも通じて長崎では丸山遊女「疋田屋の姫菊」となじみという。
寛政12年12月(1801年1月)、寧波から長崎に向かっていた劉然乙の萬勝號は海難のため漂流して同月4日掛川沖に漂着。致し方なく船中にて帯来の洞簫、三線、月琴などかき鳴らしている所を地元民に発見されて横須賀藩に通報された。鎖国中のこととて色々取調べの上保護され上陸するが、残った船体も強風波浪のため破船。そのまま現地に逗留、3月19日に日本船で出発、5月12日に長崎奉行に引渡しという。
この時42歳というので乾隆24(宝暦9)年頃の生誕か。
この滞在で地元民か聞き覚えた清曲がもとになりかんかん節が発生したらしい。また滝沢馬琴は「掛川下復町の大場氏よりナタ劉然乙が書る扇面を得たり(著作堂一夕話)」というので、地元民との交流の中で書画など残していったのであろう。
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