乾清花苑  太白廡  略伝引得

大槻家
 
 ┳茂性━━━清慶━━━清雄━━┳清臣━━━清廉━━━清祐━━━清俊
 ┃                     ┗平泉━━━習齋━━━清良
 ┃              ┏玄幹
 ┗玄梁━━━玄澤━━┻磐溪━━┳如電
                        ┗文彦 
大槻磐溪(1801〜1878)
 江戸後期・明治の儒者、砲術家。享和元年5月15日生。大槻玄沢の次男。昌平黌でまなび、天保3年仙台藩江戸藩邸の儒員となる。江川塾で砲術をならい、開国論を主張。文久2年仙台にいき、藩校養賢堂の学頭となった。明治11年6月13日死去。78歳。江戸出身。名は清崇。字士広。通称は平次。著作に「献芹微衷」など。






七絶 1862 七絶 1860 墨蘭 蔵印
大槻如電(1845〜1931)
 明治〜昭和前期の学者。弘化2年8月17日生。大槻磐渓の次男。大槻文彦の兄。仙台藩藩校養賢堂にまなぶ。明治4年海軍兵学寮教官となり、文部省勤務ののち7年退官。以後在野の学者として和漢洋学、文芸、歌舞音曲など幅ひろく活躍した。昭和6年1月12日死去。87歳。江戸出身。名清修。字は念卿。通称は修二。著作に「洋学年表」「舞楽図説」など。

大槻文彦(1847〜1928)
 明治・大正の国語学者。弘化4年11月15日生。大槻磐渓の3男。大槻如電の弟。開成所、大学南校でまなび、明治5年文部省にはいる。宮城師範校長、国語調査委員会主査委員などを歴任。国語辞書「言海」(のち増補し「大言海」)を編集し、24年自費刊行した。学士院会員。昭和3年2月17日死去。82歳。江戸出身。本名は清復。通称は復三郎。号は復軒。著作に「広日本文典」など。