乾清花苑  太白廡  略伝引得

興野成信(1783〜1865)
 水戸藩士。歌人。茨城郡高久村組頭加藤木信衛門の長男。姓加藤、名任・輓、通称助九郎・介右衛門・介九郎、道甫・大車、号槐庵・槐葊・茶梅・茶楳?・春草・琴屋・河澄。21歳の時に同郡増井村興野助右衛門の養子となる。弘化元年8月郡方手代となるが、嘉永元年11月斉昭の雪冤運動に加わった為、投獄、追放刑に処せられた。同6年8月赦され、安政4年11月には留付列で弘道館歌道方に抜擢、同5年6月再び郡方手代となった。しかし、尊攘運動に挺身する中で、元治元年8月、那珂湊合戦に参加したが、敗れて慶応元(元治2)年4月4日に斬首に処せられた。享年83。
 12歳で加倉井砂山の日新塾に学び、初代の塾長となる。後に会澤正志斎に学び、同門の藤田小四郎らと交流があった。道甫の学問は、和漢の書籍に渉り、水戸学や荻生徂徠の他、国学者にも造詣が深かった。著作には、『正道略説』や本居宣長や平田篤胤の学説を詳論し、わが国の優越性を説いた『道志留部』などがある。また、和歌・詩文に秀で、塾中髄一と呼ばれた。