大河内恒庵(1796〜1883) | ||||
西山玄道━━┳大河内恒庵 ┗伊藤圭介 |
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医学者。本草学。名古屋の町医西山玄道の長男として生まれた。実弟に植物学者伊藤圭介がいる。幼名代吉または右仲(弟圭介は左仲)、名重敦、のち重徳、字子厚、恒庵・還諸子・八松・東郭などと号した。通称存真。医術を尾張藩医の浅井貞庵について学び、浅井医学館の塾頭となった。文政元年大河内家の養子となり家督を相続、小普請御医師高70俵を給せられた。嘉永元年奥医師、同五年藩営の種痘所が設営されると弟の圭介と共にその主任となった。医学のかたわら本草を水谷豊文に師事し嘗百社を結成、毎月例会を開き薬品会も開催した。文政九年長崎から江戸参府に向かうシーボルトに熱田宮で豊文、圭介らと共に会い帰国後の彼に植物標本や日本産『昆虫図譜』の著述を送った。石井宗謙のオランダ語訳が付せられた。明治16年5月23日死去。行年88歳。(日本掃苔録、名古屋郷土先傑伝)、墓は長栄寺(平和公園) |
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