乾清花苑  太白廡  略伝引得

小出家(四条派)
小出半七━━┳伯圭━━┳豊水
         ┃      ┣俊彦
         ┗晩翠    ┣亮彦
                 ┗錦水
           小出美成 
小栗伯圭(1792〜1837)
 寛政4年知多郡半田生。通称は半七、字は士復。別号に素軒・修同館がある。呉春・景文に師事して四条派を学んだ。山水、花鳥、人物を描き、また詩文和歌をたしなんだ。書は王羲之の古法帖に学び、隷書をよくした。天保8年5月17日、47歳で死去した。
小栗晩翠(1795〜1871)
 寛政7年生。小栗伯圭の弟。通称は仙八郎、字は徳卿。別号に先慎、愛善、松下堂がある。兄とともに呉春・景文に学んだ。画のほかに俳諧、狂歌、和歌をたしなんだ。文政9年の『をはり田のみ』に尾張の名所画4枚のうち東浦図を描くなど、俳書の挿絵もした。明治4年6月、77歳で死去した。
小栗豊水(1812〜1847)
 文化9年生。小栗伯圭の長男。半七家の七代目。通称は半七、字は士績。画を岡本豊彦に学んだが、家業を守り、弟たちに画業を継がせた。弘化4年10月4日、36歳で死去した。
小栗俊彦(〜1889)
 小栗伯圭の二男。通称は友松、別号に岡本舎人がある。はじめ父に学び、のちに京都の岡本豊彦について四条派を修めた。豊彦の嗣となって岡本の姓を名乗ったが、故あって離縁したため、青蓮華光院の近侍となって、岡本舎人と称した。明治22年7月24日死去。

俊彦

博古好今

俊彦


應物寫形


中京人書畫冊 1872
小栗亮彦(1818〜1884)
岡本亮彦

 文政元年生。小栗伯圭の四男。通称は保吉、名澄、字は士朗。別号に暁翠、澄神斎がある。通称司馬。はじめ父に学び、のちに岡本豊彦について四条派を修めた。兄の俊彦が豊彦のあとを嗣いだが、離縁になった後、その嗣となって岡本姓を名乗った。中年中風にかかり、左手の自由がきかなかったが、右手だけで自在に描き、中国・北陸地方を遊歴して評判を得て、画名をあげた。明治17年、67歳で死去した。

 中京人書畫冊 1872
小栗錦水(1828〜1892)
 文政11年10月生。小栗伯圭の六男。通称は六平。父に学び、のちに呉春派から北派に転じ、また南画派に入った。芥子園佩文らの画伝を閲して、明清諸家の画法を学んだ。とくに写生を好み、各地を遊歴して名勝地を実写した。明治25年3月30日、65歳で死去した。
小栗美成(1810〜)
 文化7年2月7日知多郡半田生。通称は兵作。別号に春江、成美がある。12歳の時に小栗伯圭に画を学び、のちに京都の岡本豊彦に師事し四条派を修めた。
UAG美術家研究所

小栗悳字公富

素軒

觀古堂
? 中京人書畫冊 1872
※誰彼未定
※素軒とあれば伯圭は既になくっており、悳とあれば晩翠かと思えどもやはり亡くなっており、未特定