乾清花苑  太白廡  略伝引得

中内樸堂(1822〜1882)
 津藩士。名淳、字五惇、樸堂は号。島川宗蔵の次子、七歳の時中内家の養嗣となる。天保4年2月藩儒齋藤拙堂の門に入りて業を受け、弘化元年4月藩黌の句読教師となり、2年5月大小姓に転じて屡々江都に往来し交を諸名家に訂して益を受くるとこ尠からず。嘉永元年伊賀崇廣堂の講官となる。明治2年督学参謀に進み文武学政を総督す。4年12月廃藩閉校のため解職。6年10月、神宮支庁の招聘に応じて宇治に移り、神宮教院にて漢学を講せしが、8年1月病をもって辞す。13年9月津中学校に聘せらる。同年明治天皇者駕通過の時に安濃郡長福井薖が「樸堂詩抄」を献上叡覧を辱くす。かつて拙堂の詩評もあり。明治15年12月30日没。年61.城西古河光沢寺に葬る(三重先賢傳)。