乾清花苑  太白廡  略伝引得

中島撫山家
 遠祖は尾張中島郡の領主。大阪の陣の時兄某は豊臣方、弟清右衛門は徳川方に分かれた所以で清右衛門は江戸にくだり神田乗物町を領して代々駕籠製造を支配した(評伝・中島敦)。
∴中島良雅━━┳〇撫山━━┳綽軒━━(子孫は札幌にあり)
            ┃  │    ┣斗南
           ┃ 龜田氏  ┣玉振
           ┃       ┣翊 
関氏
           ┗杉陰    ┣開藏 
山本氏
                    ┣田人━━━敦
                    ┗比多吉
中島清右衛門(〜1637)
 中島家祖。元京都の人江戸にくだり神田乗物町を領して代々駕籠製造を支配した。菩提寺は浅草光明寺(台東区元浅草4‐7‐10)

中島良雅 清右衛門 諱好孫(〜1847) 中島家11代

中島撫山 慶太郎(1829〜1911)
 本名は慶。通称は慶太郎。別号に佐知麻呂。江戸亀戸生。14歳の時、亀田綾瀬の門下に入り、没後は、その子鶯谷に就いて漢学や国学をを学んだ。明治2年(1896)久喜本町に移住し、永住の地として本籍も移した。明治6年(1873)私塾「幸魂教舎」を設立し、漢学や国学を教授した。

中島杉陰 榮之甫(1845〜1906)
 撫山の異母弟。東京下谷西町の住人。弘化二年生。名栄之、字樞発。暗香浮動山荘は別号。江戸の人。文晁派の鈴木鵞湖に師事、各地を遊歴した。後に南北合一派として画法を究めた。日本南宗画会、亀田鶯谷の『學孔堂遺文』巻頭の「鶯谷先生肖像」などを手掛けた。墓所は撫山と同じ久喜光明寺(神式)



獨釣圖 1880

中島綽軒 靖(1885〜1906)
 撫山の長男(第二子)。母は日永氏(紀玖)。字は靖之。別號吃吃齋。父撫山に句読を受けのち鶯谷の門に学ぶ。撫山の親友高田春汀の招きにより栃木薗部村(栃木市入舟町)にて明誼学舎を開く。著に『綽軒遺稿』など。

中島斗南 端藏 名は端(まさし、1859〜1930)           
 撫山の二男(第四子)。母は後妻亀田氏(きく)。別号勿堂・復堂。兄同様父撫山に句読を受けのち鶯谷の門に学ぶ。24歳の時「言揚学舎」を届け出。また31歳のころ「无邪志會」を結成し間もなく会友宮内翁助とともに「明倫館」を開く。
 また外交に関心が高く『日本外交史』『支那分割の運命』等を著した。詩文の遺稿は『斗南存稿』として刊行された。一生家庭を作らず東奔西走した。

中島玉振 竦之助 名は竦(しょう 1861〜1940)
 撫山の三男。字翹之。別號蠔山。幼より家学を受け、長ずるに及んで国文・国史に潜心して、『国語条理』を著す。のち中国へ遊学10年、『蒙古通史』を著す。帰国後善隣書院にて二十余年教鞭をとる。この間事に説文を研究『書契淵源』を著した。博覧強記、頭脳極めて緻密、一生家庭を作らず研究に没頭した。

中島田人(1874〜1945)
 撫山の六男。父兄について家学を専攻。はじめ明倫館の教壇に立ち、その後勤務先を転々、公立銚子中學以来内外地に勤務。はじめの妻とは協議離婚、後妻二人はともに死別している。『撫山中島先生終焉之地』碑文を撰した。

中島敦(1909〜1942)
 中島田人の長男。一歳にならないうちに生母が父と離婚し久喜町の祖父母(撫山・きく)に預けられた。幼少時は父の転勤地に転々と通学した。帝大国文科卒業後、教職に着いた。その後パラオ南洋庁へ教科書編纂掛として赴任したが、持病の喘息が悪化したためほどなく帰京するも翌年父に先立ち逝去。
 深田久弥と深い交友を持ち、デビュー作の『山月記』と『文字禍』(発表時の題は二作まとめて『古譚』)、続けて発表された『光と風と夢』などは、彼の推薦による。『李陵』他いくつかの作品は没後に発表された。漢文調の格調高い文体とユーモラスに語る独特の文体を巧みに使い分けている。『李陵』は無題であったものを深田が命名したもので、中島はいくつかの題を記したメモを遺している。
 没後1948年、中村光夫、氷上英広らの編纂で『中島敦全集』全3巻が筑摩書房から刊行され、毎日出版文化賞を受賞。以後、国語教科書に「山月記」が多く掲載されたため広く知られた作家となる(Wiki)。

中島比多吉(1876〜1948)
 撫山の七男。東京外国語大学支那語科を卒業。早稲田大学にて講師を務めた。その後清国保定府の警務学堂に招聘されたのを機に活躍の場を大陸に移した。日清戦争後陸軍通訳官、満州事変の折には渉外担当、清朝遺臣である鄭孝胥・羅振玉・張景惠らと接触した。昭和9年満州国が成立すると諮議をして皇帝の側にあった。
 戦後久喜の撫山宅へ引き上げ23年没。73歳

 

 

 
中島撫山家
〇中島清右衛門━━━┳撫山━━━┳綽軒
               ┃ │     ┣斗南
                  ┣玉振
                  ┗田人━━━━敦        
 中島家の遠祖は古く尾張中島郡を領した中島氏であるとされ、その後は京都に移りやがて江戸に来住してから代々、日本橋新乗物町で駕籠を製造販売する商家となった。累代の墓は台東区元浅草の光明寺。
 中島慶太郎(撫山)は、14歳のときに儒学者・亀田鵬斎の孫弟子として鵬斎の子の亀田綾瀬の門下となり、綾瀬没後はその後継者となった亀田鶯谷に師事した。のちに埼玉県南埼玉郡久喜町に漢学塾「幸魂教舎」を開いた。撫山以下の墓所は久喜光明寺(神式)。
 撫山の子はみな漢学をおさめ、端(斗南)は亀田鶯谷のもとで漢学を学び、私立中等教育機関「明倫館」の創設に携わったほか、中国問題に関する著作などを著した。竦(玉振)は、善隣書院でモンゴル語・中国語を教授しつつ、中国古代文字の研究を行った人物であった。ほかに関翊・山本開蔵・中島比多吉ら、みな世に出ている。
 田人の子に小説家敦がある。田人以下の墓所は多磨霊園。
中島杉陰(1845〜)
 中島撫山の異母弟。弘化二年生。名栄之、字樞発。暗香浮動山荘は別号。江戸の人。文晁派の鈴木鵞湖に師事、後に南北合一派として画法を究めた。日本南宗画会。墓所は撫山と同じ久喜光明寺(神式)