乾清花苑  太白廡  略伝引得

三谷家(久留米藩御用絵師)
∴三谷等哲━━━@等悦━━━┓
┏━━━━━━━━━━━━━┛
┣━A安俊───B永伯              ┏仙哲(夭)
┃            ┝━━━C永雪自信━━┻D永錫映信━━━┓
┃           安常女                           ┃
┃┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃┗E勝浦友信━━┳━勝竹(江戸分家)
┃            ┠F友林主郷━━━━G真澄澹園
┃            ┣━泰蔵(夭)
┃            ┗━三雄義信           
┃江戸分家     ┏━永恕(江戸第二分家)       [4]仙八主景
┗━[1]安常━━━┻[2]元就柳眼━━┯━(夭)         ┝━━━┓
                         └[3]宗恕主邑━━━女     ┃
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┃              狩野法眼     狩野
┗━[5]永就資信───[6]勝波方信━━━勝澤有信   
三谷勝澤有信 (1842〜1928)
 久留米藩最後の御用絵師。天保11年生。三谷勝波方信の長男。三谷等哲の末裔。幼名虎三郎。のちに狩野勝沢と称した。安政6年、17歳で木挽町狩野家の狩野勝川院に入門。20歳の時に狩野姓を許され狩野勝沢と称した。狩野芳崖、橋本雅邦は同門。明治に入ると長崎や東京で西洋画法を研究。県会議員、初代久留米市会議長をつとめる一方、内国絵画共進会、東洋絵画共進会などに出品した。明治40年には政界を引退して画業に専念した。大正14年、東京において84歳で死去した(UAG美術家研究所)。
代表作「福岡縣下水害図(筑後川水害絵巻)」1889、 著に『筑後地理小誌』『三潴上代考』()