乾清花苑  太白廡  略伝引得

圓山派
 江戸中期京都に興った円山応挙を祖とする画派。琳派など日本伝統の装飾画法に、沈銓の写生画風や、西洋画の写実技法を加味して、清新な画風を開いた。画家に長沢蘆雪、駒井源g、山口素絢ら。
〇圓山應擧━━━┳應瑞────應震────應立
     ┗木下應受━┳應震↑
            ┗女
                          ┝━━━━━國井應文
                國井良伯
圓山應擧(1733〜1975)
 江戸後期の画家。円山派の祖。丹波生。字は僊斎・仲選、号は一嘯・夏雲・仙嶺等、通称は主水。石田幽汀に狩野派の画法を学び、幽汀の写生的画法に、宋・元画の技法を取り入れると共に、西洋画の遠近法を研究して一家を成した。動植物の写生を最も能くする。寛政7年歿、63才。



譜寶

圓山應立(1817〜1875)
 幕末・明治の円山派の画家。京都生。友禅工寺井久次郎の子。養拙流書法の祖寺井養拙の玄孫。幼名は勝治郎、のち多都雄と称し主水と改める。字は子道、別号に方壷・米斎等。はじめ禁裏御所官人島田近江守徳直の猶子となって、円山応震の養子となり同家四世を嗣いだ。安政年間の内裏障壁画制作に参加。人物花鳥を能くした。明治8年(1875)歿、59才。
國井應文(1833〜1887)
 幕末・明治の画家。天保4年京都生。父は医師・画家であった国井良伯、母は円山応挙の孫で円山応震の妹。円山応立にまなび、その歿後は一門の後継者となる。山水・花鳥画をよくする。安政2年禁裏の絵御用を務める。のち中島来章、塩川文麟らと如雲社を設立した明治17年第2回内国絵画共進会に「桂御所御庭図」「花鳥」を出品、褒状をうけた。明治20年3月29日死去。55歳。京都出身。字仲質。別号に彬々斎。
墨蘭