前田慧雲(1857〜1930) | |||||
仏教学者。号含潤道人、止舟。安政4年4月14日勢州桑名生。父を覺了という。本願寺派西福寺の就職。幼にして家嚴および叔父祐乘について佛典および漢学を学び、長じて大賀旭川に従いて漢学を専攻。のち京都に出て肥前の儒者草場船山の塾に束修し、また仏典を研鑽した。かくて経史に通じ詩文を能くし儒者として世に重きをなすに至れり。すなわち去りて叡山に上り大寶律師に従いて内典の学を研究すること多年。止観の窓に一念三千の妙諦を極めその造詣けだし測るべからざるものあり。明治24年以来本願寺払子の学事を監督し、30年以降本願寺大学林を主幹した。時あたかも東京帝国大学において多年佛典講座を担任したる村上專精の任を辞するに会す。慧雲推されてその後を受けて講座を担任。36年文学博士の学位を授けられる。ついで私立東洋大学学長、株式会社蔵経書院の会長たりしが、大正3年6月をもって東洋大学学長を辞す。慧雲口訥にして応接に巧ならず。是を以て幼時は檀家より勃卒なすなきの人として大いに侮蔑せられたという(続三重先賢傳) 高輪仏教大学長・東洋大学長・竜谷大学長となる。数多くの研究があるが、中でも天台研究に功績を残した。書画の方面でも一家を成す。昭和5年(1930)歿、74才。 |
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