乾清花苑  太白廡  略伝引得

久貝蓼湾(1819〜1861)
 蓼灣先生、久貝氏。名岱、字宗之。詩才敏捷、耐軒(1806〜1859)より少きこと十余歳にしてほどんど頡頑す。木村裕堂なるものがあって名はこれに次ぐ。三人は意気交わり相得るもの。宗之は灑灑落落として小節に拘らず。俗士を厭い、これに対して寒喧数語のみ。しかるに故人(旧知)知友に遇えば杯酒歓笑して日夜を窮めた。昌平黌助教。裕堂、耐軒の没後、宗之は悽然無聊として、意気もとにしかあらず。文久元年夏疾を得てその夜亡くなる。年42(敬宇文集より抄出)。
 古今に越たる才子。殊に詩をよくし、千古未發の見解あり。本邦詩學ありてよりの宗社といふべし。書もまた絶倫。將碁栂戰の雜技も凡人にはあらざりけり(反古のうらがき)。
 友野霞舟の門。著『蓼灣詩抄』『習孏詩抄』。


自怡

代山

宗之
學□戯作