乾清花苑  太白廡  略伝引得

鉄兜 河野羆(1825〜1867)  てっとう こうのしぐま
 勤王の詩人。文政八年(1825)揖東郡網干垣内に生れる。本名は絢夫、羆(志久満)宇夢吉、号鉄兜・秀野、晩年は錦壇また別に祝田・月廊・斉南・晴南・楡村・楡城・揖東・秀史・秀生・秀禿等があり。書楼を鉄兜書院秀野草堂、祝田廬、美竹西荘、文選復興楼と名づけた。
 幼時、河合寸翁の仁寿山校に学び、長じて江戸に遊学。中国、四国、九州地方各地の碩学を訪ね、詩法を梁川星巌に問い、咸宜園を訪ね淡窓旭荘に教えを乞う。特に、頼三樹三郎との交友は厚く、宮中の御宴で明清楽の話に公卿の一人が河野鉄兜の話に及び、孝明天皇が「河野鉄兜は播の儒生にして音律にも通じたりや」と仰せられ、それを仄聞した頼三樹三郎が「天子知名」の刻印を河野鉄兜に贈った話がある。
 嘉永四年林田藩主、建部政和の招きにより、藩校敬業館の教授となる。
 慶応三年2月6日病没。昭和三年 勤王詩人の功績を認められ贈正五位。(播磨偉人伝http://www.kouko.shop-site.jp/harimaijinden/ka_gyou.htm) 

美竹


夢之回

江尻道中

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