乾清花苑  太白廡  略伝引得

北村方義(1834〜1901)
 天保5年高井郡綿内村生れ。北村家の由来は、越後の新発田城主新発田重家が戦死により、その子の佐々木佐渡守満方が信州に逃れて、綿内村に落ち着き、北村姓を名乗ったという。
 弘化元年に方義の父が家を弟に譲り須坂藩に仕えたため、父とともに須坂に移住。嘉永5年、19歳のときに江戸に遊学し、亀田鵬斎を初代とする亀田塾の門下生となる。成績抜群で塾生の講師も勤めた。堀直虎も亀田塾で学んだが、当時16歳で同門の後輩という関係になる。直虎は、方義を敬い慕っており、方義が国許の須坂へ帰る際には、「餞別詩」を送っている。帰郷後、方義は、佐久郡・水内郡柏原等を歴遊し、講義を行った。
 文久元年直虎は13代須坂藩主となり、藩政改革を行い、同2年に方義は、藩校「立成館」の教授に任命され、側近として活躍した。慶応3年、幕末の困難な時期に直虎が重責の「若年寄兼外国惣奉行」を引き受けたときには、他の藩士とともに江戸へ赴き、勤王の立場から直虎に職を辞すように進言したが、直虎は方義の意見に理解を示しながらも、徳川への恩義などを理由として職を辞すことはなかった。
 慶応4年直虎自刃後は、方義は須坂藩の存続に力をそそぎ、その後も14代藩主直明を補佐し、混乱の続く幕末から明治への須坂藩の導き役となった。また、明治新政府においても重職を勤め、明治4年の廃藩置県後は、柏原の小学校や師範講習所飯山学校で教員を勤め、県庁で史誌編集に携わるなどした。明治14年に職を退いた後も長野市妻科に居を移し、子弟の教育につくしており、子弟の数は約2,000人と言う。明治34没。政義の書や書丹は市の内外に多く残る(須坂市)。


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