乾清花苑  太白廡  略伝引得

 
〇木蘇大夢━━━┳某
            ┗岐山
木蘇大夢(〜1870)
 
東本願寺派の僧本姓は小川、名は艮、字は髯卿、大夢又は簑洲外史と號す。
 稲葉郡佐波村観音寺に生る。幼より頴悟、宗乗を學び、又笠松の角田錦江に就きて業を受く。後笈を負ひて鎮西に遊び、廣瀬淡窓の門に入りて研鑽の功を積み、耶馬溪及び瓊浦(長崎)に遊びて帰る。大垣藩老小原鐵心の知遇をうけ、また江馬細香、野村藤蔭及び加納の三宅樅臺等と交好し。
 安政3年樅臺及び醫順道と大垣に抵り、細香を誘ひて鐵心に見ゆ。鐵心かん待甚だ力む。大夢爛酔、帰途袍を失して装を成すを得ず。醫順道の副袍を借りて帰る磊落の風あり。
 大夢夙に慷慨の志を壊き、勤王論を唱導し、幕末の際京に出て、当年の勤王家藤本鐵石、松本奎堂、木戸孝允等と交を締び、大に志士の間に重んぜらる。また松平春嶽公の知遇を蒙り、越前地方に漫遊して、専ら勤王の大儀を鼓吹せり。此の間世路難儀、流落すること七年、偶々越中に在りて維新の運に遭ひ、明治元年正月、徴に応て京に上るがこの間の消息未詳。
 同年秋京師を退き、来りて大垣に寓し、やがて藩公に仕へて漢詩進講の役を勧め、月俸一百両を給せられる。蓋し、是れ鐵心の推挙による。此の間更始風雲際會集の編あり。是れ大夢が京師に寓するの時、諸徴士と交りて、其の雄篇奇作を見る毎に之を録し、うち國事に関係あるもの若干を採択せるものなり。鐵心すゝめて上梓せしむ。
 明治二年開春、鐵心、大夢を拉して東京に赴く、毛芥の送詩あり兩個の交態、水魚も比ならず。当時東北の諸藩未だ全く降らず。官軍陸續出征す。一日祖筵を江東井生村楼に開く。木戸孝允援筆詩を大夢に贈る。
 明治三年庚牛一月大夢病を得て大垣の客舎に臥す。遂に起たず。子岐山家を嗣ぐ(森琴石.com)。