乾清花苑  太白廡  略伝引得

岸派(佐伯氏)
  岸派は、岸駒を派祖とする江戸後期から明治の日本画の一派。京都画壇に一大勢力を形成し、岸駒の長子岸岱、河村文鳳、横山華山、白井華陽など多くの画家を輩出した。 歴代有栖川宮家に仕える。
                 ┏━岸慶
                 ┣━岸禮
                 ┣━岸誠
@岸駒━━┳A岸岱━━┸B連山   
        ┃           │     ┏━九岳
        ┃ 岸成       ┝━━━┸C竹堂
        ┃  ┝━━━━━春     
        ┗━貞             
           ┝━━━━━岸恭     
          岸良
岸駒(がんく、1756?〜1839)
 江戸時代中期から後期の絵師。姓佐伯。名昌明。幼名乙次郎、又は健亮。字賁然。華陽、鳩巣、天開翁、同功館、可観堂、虎頭館と号す。初期の号は岸矩。岸派の祖。従五位下。
岸岱(1782?〜1865)
 江戸後期の絵師。岸駒の長子に生まれ、岸派の2代目として継承・発展させた。名は若い頃は国章、のち昌岱。字を君鎮。別号に卓堂、虎岳、紫水、同功館など。文化5年従六位下筑前介に任ぜられる。文政8年10月に正六位下に、天保7年には越前守に進む。 安政年間御所造営の時岸誠・岸連山・岸竹堂らと共に壁画製作にあたる。文筆にも優れて書籍の序なども手掛けた。実子に、岸慶、岸礼、岸誠がいる。

同功第弍

筑前介岸岱

三保遠望圖 

? 荷駄圖
岸連山(三代1804〜1859)
 岸岱の弟子となり、後に岸駒の養子として京都の伝統画派四条派の画風を加味して癖の強い画風を変容させた。実子に岸九岳がいる。京都。旧姓青木。岸駒の長女で岸良の妻・貞の先婿との娘・晴(春)と結婚、婿養子となり第三代岸派を継承した。
岸竹堂(四代1826〜1897)
 連山の弟子で後に連山の養子(娘婿)となる森寛斎、幸野楳嶺らと並ぶ明治草創期の近代京都画壇に重鎮となり、岸派の伝統である虎や鳥獣だけでなく、洋画の陰影や遠近法を取り入れ写実的な風景画なども描いた。しかし、岸派はこの竹堂をもって実質的な終焉を迎えた。
岸慶(1811〜1848)
 岸岱の長子。江戸後期の絵師。名昌慶。字士(子)善、号台岳、護堂。岸岱に岸派の日本画を学ぶ。祖父岸駒・父同様有栖川宮家に仕え、禁裏絵所に出仕、主殿寮生火官人として官位と長門介を拝領した。父岸岱より先に没したため、目立った活動は知られていない。
岸禮(1816〜1883)
 岸岱の次男。江戸後期・明治の絵師。名は持豊、持礼。字士弟、号に雪峰、化鵬、北鵬、白雲館など。官名から岸大路左近将監と称した。 父について岸派の絵を学び、安政度京都御所の障壁画製作のため禁裏絵所に出仕して近衛府官人となり、左近衛府下野守に任じられ、さらに左近将監に昇進した。明治維新後に東京に移住し、当地で没した。
岸誠(〜1867)
 岸岱の三男。江戸末に活躍。丹波介。名昌誠、字士敬、号三峯。父に学び、岸派の伝統を踏まえた日本画を描いたことで知られる。父と同じく御所に仕え、有栖川宮家の近習となり、丹波介を名乗ることを許された。
岸成
 岸駒の高弟。号螟蛉。岸駒の長女貞と結婚し一女春(岸連山妻)をもうけたが早世。  
岸良(1798〜1852) 
 江戸時代後期の画家。寛政10年生。京都の人。岸駒にまなび、娘婿(後夫)となる。有栖川宮家につかえた。人物・花鳥画にすぐれたという。嘉永5年3月19日死去。55歳。字子良。号画雲。
蓑翁圖
岸恭(〜1874)
 
岸良の子。父親に絵を学び、花鳥画を得意とした。明治7年没。別号鶴堂。

 

群鶴圖小品(旧蔵)

若松圖(旧蔵)

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