川村竹坡(1798〜1875) | |||||||||
江戸後期の儒者。名尚廸、字毅甫、通称貞臧、竹坡は号。父嘉平治は勢州三重郡高角村の人。安永中、津藩に仕えて司農局属吏となり釐米を給せられる。竹坡は幼にして読書を好み書字をよくす。少壮詩を津阪東陽に学ぶ。文正3年新に三口糧をたまわり養正寮書師副手となる。時に年24.4年父退老したるをもってその俸を襲き、7年句読師となる。石川竹高ェ督学となると、撰ばれて京都に遊び猪飼敬所の門に入る。業なり国校講官に試みられ、大扈従に班し、典籍を兼ねる。17年世子伴読を命ぜられ、天保2年侍講に進み秩130石を給せられる。三年講師となり武庫監に班し、年給150石となる。6年より齋藤拙堂と交々侍讀をなし、9年改めて20口糧を給せらる。13年世子の傅となり侍読を兼ねる。嘉永元年に至り進んで世子の侍御長となり、秩30石を増す。5年さらに講師となり楮幣司に班し、尋いで督学参謀に任ぜられ、藩籍司に班す。安政6年ついに督学に進み文武の学政を統督し録300石に至りさらに進んで銃頭に班す。明治2年致仕し、8年9月29日没す。年79。 著し尚縄(徳太郎)家を襲ぎ、時習館に長たりしが、早く歿しす。次子は出でて渡邊氏を冒す。よって明治2年高森重威の子寛を養子としその女に配す。 著に文集、随筆等数種(三重先賢傳)。 |
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