乾清花苑  太白廡 略伝引得

藍渠 梶原景淳(1761〜1834)
 平氏。名は景惇、字は復初。通称は三平。後に九郎右衛門。松州主静庵と号す。後に藍渠、また三痴学人と号す。(高松)本町の豪商槲(かしわ)屋に生まれ、幼少より学を好んだ。性頴敏、博聞強識にして和漢の学に通じ、詩文書画また茶事をよくした風流人であった。中年より、発憤して、帝王編年史『歴朝要紀』を私撰して、天保三年藩主松平頼恕に献じた。頼恕はこれを嘉して、藍渠を士分に取り立てた。さらに五代藩主頼恭の修史事業の遺志を受け継いで国史編纂の志を抱いていた頼恕は、城中西の丸に「考信閣」を設けて、藍渠、藍水父子、友部方昇、源春野等に命じて、藍渠の私稿をもとに校讐の任に当らせた。天保十年「後醍醐天皇紀」二十三巻を完成させて、光格上皇、仁孝天皇及び幕府(国会図書館蔵神皇正統後記 5巻、歴朝要紀 15巻付録3巻)へ献上した。藍渠はまた修史事業の傍ら『讃岐国名勝図会』の編著を企てていたが、完成を見ることなく、天保五年73歳で世を去った。この仕事は子の藍水によって受け継がれ、嘉永七年に「東讃之部」五巻は刊行されたが、「中・西讃之部」は上梓されずに終った。
「香川の文学散歩」http://www.library.pref.kagawa.jp/kgwlib_doc/local/local_9001-10.html
事実文編に墓碑銘有り


山深無塵