乾清花苑  太白廡  略伝引得

原家
 
 手塚辰詮━━━古處    ┏━白圭
            ┝━━━╋━采蘋
〇原坦齋━━━━雪     ┗━鳩巣
 
 
原采蘋(1798〜1859)
 江戸後期に活躍した女流漢詩人。本名猷(みち)。号采蘋、霞窓、有煒楼。江馬細香・梁川紅蘭とともに三大女流詩人として知られる。中でも采蘋は、男性漢詩人と肩を並べて、男装で全国を遊歴して回った唯一の女性遊歴詩人。
 寛政10年4月、九州福岡藩の支藩、秋月藩の儒学者原古処と妻雪の長女として生まれる。5歳上の兄瑛太郎と4歳下の弟瑾次郎がある。しかしこの兄弟は病弱であり、儒者の家系を存続させるには無理があったため、古処ははじめから健康で才能豊かな采蘋に期待をかけ、男子と同等の教育を授けた。16歳の時縁談があったが、結局破で終わっている。当時原家では、古処が藩の職を解かて、それ以降、古処は家族を伴い遊歴の旅に出かける。父とともに遊歴を繰り返す采蘋は各地でその才能を評価され、評判は各地に広まった。
 文政10年父古処は死去し、采蘋に詩人として「不許無名入故城」の遺言が残った。30歳で江戸にのぼり、20年間江戸で暮らした。この間、近隣を訪ね、漢詩や漢学の指導をしながら生活。采蘋の遺した当時の人名録には、頼山陽・梁川星巌・松崎慊堂・大沼枕山・鱸松濤・広瀬旭荘など名があり、その友人らに囲まれながら詩酒を共にした。采蘋は恐らく女性でただ一人の遊歴詩人であり、身の危険を避けるために男装をして、帯刀をしていたと伝わる。生涯独身で、安政6年、62歳で宿願であった父の遺稿の上木のため、江戸に向け出発したが、途中萩で流感に罹り客死。享年62(楊花飛ぶ 原采蘋評伝)。