乾清花苑  太白廡  略伝引得

深田家 尾張藩儒
          永原左平━┳某   ┏厚齋
〇深田円空━━明峯──┷慎齋━┻九皋正益━━香實正韶━━精一

深田慎齋(1683〜1737)
 江戸中期の儒者。天和3年生。深田明峯に師事して養子となり、尾張名古屋藩の儒官をつぐ。「温知政要輔翼」を校訂した。元文2年10月12日死去。55歳。近江出身。本姓は永原。名は正倫。通称は清蔵、のち宗信。





芙蓉
題画山水
 
深田香実(1773〜1850)
 尾張藩儒学者。国奉行・寺社奉行を努めた深田九皐(正益)の長子として生まれた。九皐は、円空を祖とする深田家の三代・慎斎の第二子。香実は名を正韶、字を子縄といい、初め助太郎、のち増蔵と通称した。香実はその号で、円空遺愛の悔(後水尾天皇より"香実悔"と賜号)にちなむものであると伝えられる。ほかに豊坂翁の号もある。若い頃石川香山に師事、二十二歳で中村習斎に入門した。漢詩は岡田新川に学んだ。垂加流神道・書法・二条流寄道などもあわせ学び、諸芸に熟達したが、とりわけ易学に秀でたという。江戸において十代藩主斉朝の持読に任じられ、『稽徳編三十巻』を撰進した。尾張に帰国後は諸職を経たのちの天保年間、書物奉行となった。この時期に、尾張の代表的な地誌として知られる『尾張志』を編纂した。また、天保初年には香実を盟主とする趣味家の集り"天保会"が発足し、香美の没年まで二十二年間にわたり、多種多様の業績を残した。この会の記録が『天保会記』である。香実にはこのほかにも編著書が非常に多く、代々儒学を家学として伝えた深田家にあっても傑出した人物であると評される。その業績は国文学の方面にも及び、国漢兼学の学風を推進した一人とみることができる。門人に細野要斎・小出聚斎などがいるが、要斎の随筆『感興漫筆』などには、香実の博学ぶりを伝える記事が多く見える。嘉永三年二月、休暇をとって京都に遊び、帰国後病味に伏し、六月十九日七十八歳で死去。(三百藩家臣人名事典)
 墓碑銘は「宝樹院栄誉香実居士」。
掃苔帳 http://www4.airnet.ne.jp/soutai/01_soutai/06-3_hu/02-1_ka/owari_hukada/hukada_koujitu.html


正韶

正韶

六月秋

學圃七絶

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