朝川氏 |
広島藩朝川氏 ━┳黙翁──善庵──同齋──尚綗 ┗某(家督)━━ |
朝川黙翁(?−1814) 医師。代々安芸広島藩主につかえる家に生まれたが、弟に家督をゆずる。のち江戸で活躍した。養子朝川善庵は儒者。文化11年死去。本姓は平井。名ははじめ信、のち順徳。字子順。通称寛蔵(kotobank)。黙翁碑は熱海市上宿町 大乗寺境内。 |
朝川善庵(1781〜1849) 漢学者。松浦侯の儒臣。天明元生まれ。上野の人で本姓は片山。名を鼎。字を五鼎。号を善庵、学古塾。折衷学派片山兼山の子だが、父を幼時に失い、母の再婚先の医者朝川黙斎の養子となる。折衷学派の山本北山に学び、松浦侯・藤堂侯などから、賓師の礼を受けた。1798(寛政10)から京坂・九州各地を遊歴。幕府の招きで下田に漂着した清国船と筆談応対する。著書に『朝川善庵手簡』・『寉石抄録』などがある。嘉永2年没。 |
朝川同齋(1814〜1857) 江戸時代後期の儒者,書家。 文化11年生まれ。加賀の人。江戸で市河米庵に書を,朝川善庵に漢学をまなびどの養子となる。のち肥前平戸藩につかえた。安政4年10月22日死去。44歳。本姓は横江。名は麎(しん)。字士修。通称は晋四郎。別号に嘉遯、眠雲山房など。著作に「尚書古今文管窺」など(kotobank)。 |
朝川尚綗(1837〜1912) 幕末-明治時代の儒者。 天保8 年生まれ。片山述堂の子。朝川同齋の養子となり,その跡をつぎ肥前平戸藩に つかえる。藩校維新館でおしえた。明治45年死去。76歳。字不騫、修堂(kotobankキャッシュ)。 |
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