Morning cofee
朝早いキッチンの片隅ではコーヒーの芳ばしい香りが漂っていた。バーナビーは、特にコーヒーに煩い方ではなかったが、引き立ての豆で入れるのが香りも良く、味もいいと思う。
「‥おはようございます、虎徹さん。」
リビビングルームの入口の前で、ぼんやり立っている虎徹を見つけると、バーナビーは明るく声を掛ける。
「‥バ、バニーは早起きなんだな。」
頭を掻きながら、虎徹が困ったように笑った。
「今、丁度、コーヒーが入りましたけど、飲みますか?」
「‥ああ、いい香りだな。」
いつもなら奇妙な程おしゃべり癖のある筈の虎徹は、どこか曖昧な笑顔のままでリビングへ入ってくる。
リビングの大きなガラス張りの窓のある一角には、小さなキッチンと食事を取るためのテーブルと椅子のセット。瀟洒なダイニングコーナーだった。
「虎徹さん、此処からはシュテルンビルドが一望できるんですよ。天気のいい時は、隣の州の山も見えます。」
広い窓に視線を遣りながら、バーナビーは外を指差した。見れば明けたばかりの紫掛かった青い空が広がっている。
「‥この部屋は随分と見晴らしがいいんだな。」
虎徹が椅子を引いて席に着く。実のところ、虎徹は高層マンションに住んだことがなかった。
「‥それにしても、今朝は虎徹さんも早起きなんですね。いつもなら休みの日は朝寝坊しているって言っていたじゃないですか。」
「ま、まあな‥。何だか目が覚めちまったから。ベッドは広すぎるし、気が付きゃ、バニーはいないし。」
困ったように、頭を掻く。
「‥休みなんですから、ゆっくり眠ってていいんですよ。僕が勝手に早起きしただけですから。‥そうだ、今日でしたよね、楓ちゃんがシュテルンビルドへ来るのは。」
「‥あ?ああ。バニーは良く覚えてんだな。」
虎徹が顔を上げた。
「‥ええ、勿論です。貴方の大事な予定を忘れたりしません。‥駅で待ち合わせですか。」
「‥ああ、買い物に行くから、一緒に来てほしいってさ。」
「‥今回は楓ちゃんの買い物ですか?」
「まあな。楓がネクスト養成センターでジュニアクラスを受けてからな。予定が空いてるんだったら、バーナビーも付き合ってくれよ。‥楓も喜ぶ。」
「‥勿論、喜んで。ジュニアクラスなら、昔、僕も通っていました。楓ちゃんもシュテルンビルドへ来るのも大変でしょうけど、虎徹さんもいるし、楽しみにしているかもしれませんね。買い物ではお役にたてないかもしれませんが、車を出しますし、荷物なら持ちます。‥楓ちゃんの買い物は服か何かですか。」
「‥靴だとよ。」
バーナビーが食器棚からカップを取り出すとテーブルの片隅に置き、コーヒーを手にしたポットから注ぎいれる。続いて熱いミルクが注がれた。
「‥靴ですか。やっぱり女の子ですね。シュテルン・メダイユにあるモールなど、どうでしょう?」
「‥ん?何だかわかんねぇけど、新しい店が出来たから行きたいって楓が。」
「‥新しい‥店ですか。」
バーナビーが首を傾げていた。最近、話題になったような少女向けの靴店などあっただろうか。
「‥靴と言っても、スケートのな。足が大きくなってフィギュアのスケート靴を買い換えないといけないんだ。本当はお袋が付き添う予定だったんだけど、また腰を痛めたらしくて付いてこれないから、俺が見てやることになった。」
その話に、合点がいったとばかり、バーナビーが頷いた。
「‥もしかして、ファイヤーエンブレムの言っていた店でしょうか?」
「‥ファイヤーエンブレム?」
「‥ええ、あの人フィギュアスケートとかバレエとか大ファンなんですよ。芸術関係は、やたら詳しいんです。」
「‥そうだっけか?」
首を傾げている虎徹の様子に、くすりとバーナビーが楽しそうに笑った。
「‥知らなかったんですか?」
虎徹はファイヤーエンブレムの趣味など知らなかった。そんな話を差し向けられたことすらない。‥あの野郎、俺には高尚な話はしねぇんだな。虎徹は頬杖をついて窓の外の景色を眺める。眼下には大小様々なビルの建ち並ぶ街が広がっていた。その間を高速道路や高速鉄道が走っているのが見える。大都市らしい朝が始まろうとしていた。
「‥虎徹さん、今朝は僕の顔を見てくれないんですね。」
突然の背後の声に虎徹が我に返った。目の前に染付の伊万里の磁器のコーヒーカップが、そっと置かれる。途端、淹れたてのコーヒーのいい香りが立ち昇った。
「‥そ、そうか?き、気が付かなかくて悪かった。」
慌てたように虎徹がバーナビーの顔をじっと見詰めた。見れば青年の淡いエメラルドの様な瞳が憂いを帯びている。一瞬、視線を合わせた後、バーナビーが目を伏せた。そして、自分のカップを手にしたまま窓際へと歩いていく。朝の光を遮る青年の影。
「‥もしかして、虎徹さんは昨夜の事を後悔しているんですか?」
窓の前に立ったバーナビーは、虎徹に背を向けたまま、水底の様な深い色の瞳を窓の外の景色へ向けながら虎徹に問う。
「‥いや、後悔とかそんなんじゃなくてさ。ただ‥。」
「‥ただ、何なんです?」
虎徹の返答にバーナビーが振り返り、透明なエメラルドの様な視線が虎徹の元に戻ってくる。虎徹はカップから口を離した。
「ただ‥バニーは若いしハンサムだし、女の子にだってモテるだろうし、何もこんな子持ちの『おじさん』でなくてもいいんじゃないかって思ってな。」
「‥‥‥‥‥‥‥。」
「だいたい、何ていうか、その‥お前の勘違いみたいなモンかもしれねぇだろ。ほら、仕事でバディ組んでいるし、それでバニーが俺への信頼を別のものだと勘違いしたって可能性だってあるだろうか‥。」
「‥‥‥‥‥‥‥。」
虎徹の言葉にバーナビーの表情が硬くなったのが分った。バルコニーの正面の窓の前に立っていた筈のバーナビーは、いきなり踵を返し闊歩して、虎徹のいるテーブルの所まで戻ってくる。そして、徐にコーヒーの入った自分のカップをテーブルの上に乱暴に置いた。焦げ茶色の液体がテーブルの上に零れる。
「‥じゃあ、ベッドの中で僕の事を好きだ、って言ってくれたのは嘘だったんですか?」
瞳には、強く若い憤りが込められている。虎徹は、はっきりと首を振った。
「‥バーナビー、嘘じゃない。俺は、その手の嘘はつかない。今まで、そういう類の嘘も付いたこともねぇよ。付く機会もなかったけどな。」
いつもなら、すぐふざける虎徹の声が急に緊張したものに変化した。
「‥そうですね。貴方は人の心を試したりしない。‥そういう人だって分っています。」
虎徹の目の前に立つバーナビーの瞳の光が柔らかい色彩に変わった。
「‥ただな、お前は若いんだし、俺に決めてしまう必要はないと思ってよ。綺麗で優しい、お似合いの素敵な女の子と付き合うことだって出来る筈だ。」
「‥なら聞きますが、虎徹さんが結婚を決めたのは何時でしたか?とても若い頃に結婚したって聞きましたが。」
「俺か?俺が女房と付き合い始めたのは高校の頃で、結婚したのは大学の最終学年の時だ。」
「‥僕はもう、ヒーローアカデミーを卒業しています。」
青年の眼差しは真剣だった。
「‥ま、まあ、俺の場合は付き合いも長かったし、友恵には早くベビーが欲しいって言われてな。じゃあ、結婚するかってことになった。若すぎるって周りに反対されたけど、友恵の為にそうした。」
「‥‥‥‥‥‥‥。」
沈黙に気が付いた虎徹は、正面に立っているバーナビーを見上げた。
「‥虎徹さんは、奥様を、とても愛していらしたのですね。」
「‥い、いやその‥。」
「昨夜、良く分りました。ああいうときに気遣いできる人は、本当に優しい人だと思います。虎徹さんって、いつもはガサツ極まりないのに、ああいうときは、とても気を使うんですね。」
「‥ガサツって、お前‥俺をどんな人間だと思って‥。」
「‥奥様が、どんなに大切にされていたか、良く分りました。楓ちゃんが、愛されて命を授かったこともね。」
虎徹を見詰める神妙な面持ちの若いバーナビー。
「‥そ、そんな風に、あっ、改めて言われると‥おじさんは照れちゃうな〜なんて。」
真顔でバーナビーに告げられた虎徹は、突然、頭の後ろを掻きながら、ふざけた仕草で笑った。
「‥コーヒーをもう一杯いかがです?」
「‥あ、あぁ‥。‥そうだ、バーナビー、少し早いけど朝飯にするか。」
「‥そうですね。」
「じゃあ、俺はパンでも買ってくる。やっぱ、焼き立てが一番だろ。」
虎徹が椅子を引いて、慌てて立ち上がった。
「じゃあ、僕は、その間にサラダでも作ってます。」
「‥うん、頼むわ。急いでパンを買ってくる。」
「正面玄関を出て、通りを右へ行くと、朝、焼き立てのパンを売っている店があります。とっても美味しいパン屋さんですよ。」
「‥OK、行ってくる。」
虎徹がコート掛けの上着を手に取って玄関へと急ぐ。
「虎徹さん。」
「‥何だ?」
上着の袖に手を通しながら、廊下から虎徹が振り返った。リビングと続きになっているキッチンに立つバーナビーの端正な横顔が見える。外に跳ねているプラチナブロンド。昨夜、胸に背中に首筋に、と触れていたバーナビーの金髪の毛先のくすぐったい感触が蘇る。安心しきったように閉じられた緑色の瞳。バーナビーが身に纏っていたコロンの香りまで蘇ってくるようだ。上擦った声で自分の名を呼ぶ姿も。
「‥僕は後悔なんかしていませんから。」
だが、バーナビの視線は虎徹の方へ投げられることはなかった。虎徹は、暫らくバーナビーの様子を眺めていたが、キッチンのコーヒーメーカーに向きあったままで、こちらを向く気配はもうなかった。小さな溜息を付くと、虎徹がボタンを押して玄関の自動ドアを開け廊下に出る。シュテルンビルドの高級ペントハウスの廊下は広く、一番奥では重厚な大きなエレベーターホールが待ち構えていた。
全てが整い過ぎた生活感のない高層マンションだった。セキュリティーが厳しく、守衛までいる高級ペントハウス。
‥昨夜、生まれて初めて、男を綺麗だと思った。心から愛しいと思った。ベッドで自分たちの行っている行為に疑問など微塵もなかった。ごく自然な出来事だった。普通に結婚し普通に子供を持った自分に、こんな要素が残されていたなんて、俄かには信じ難い。それは、恐らくバーナビー自身も同じなのだろうと思う。ベッドの中のぎこちなかった仕草一つ一つがそのことを物語っていた。恐らく、自分も彼以上にぎこちなかっただろう。
‥無理することないさ、俺たちは俺たちでいいんだ。俺たちが、分かち合えて、解り合えて、満たされた気持ちになれればいいのさ。‥気持ちって、そんなモンだろ。カールした髪に触れながらそういうとバーナビーが肩の所で無言で頷いたのが分った。
―バディとしてのコンビネーションと同じで、自分たちは自分たちでいい。―
広いベッドの中で幼い子供の様に身を寄せてきたバーナビー。長い年月、どんなに寂しい思いをして生きてきたのか、それだけで良く分った。楓だって、今では、あんなにぴったりとくっついてきたりしない。まるで、楓が母親を亡くしたばかりの時のようだった。あの頃は、しょっちゅう実家へ帰って楓を抱きしめて眠らせてやったな。
‥バーナビーは若い。だから、自分の選ぼうとしている恋がなんであるか、分っていないのかもしれない。皆に敬われ、愛されているMVPヒーロー、バーナビー・ブルックスJrが、バディを組んでいる子持ちの中年男と出来ているということがスキャンダルになるということ自体が分っていない。バニーは、純粋で若くて、ただ一途で‥。同性婚なんて、つい10年ほど前に認められたばかりだ。まだまだ世間では一般的ではないし、ただの変態行為だと嫌悪を示す人や反対派も多い。そこに身を置くこと自体の危険性を分っていないと思う。
虎徹はエレベーターのボタンを押す。どこかで機械音が響き、エレベーターが昇ってきてくる音がする。その気配を感じながら、虎徹は腕を組んだ。心の内側は、まだ波打ち、大きく揺らぎ、まだ納まりそうになかった。
―果たして自分たちは、『クローゼットの外へ出る』覚悟があるだろうか。―
あとがき
バーナビーは、若いから直情的な面があるけど、
虎徹は意外と慎重だと思うんですよね。
バーナビーを大事に思うなら、更に慎重になると思う‥。
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