Visiting
ソファーにだらしなく凭れ、頬杖を付いて観ていたテレビニュースには、折り紙サイクロンがインタビューに答える映像が流れていた。
画面の中では、いつもの調子で見切っている。何となくその姿が微笑ましく、虎徹の口の片端が持ち上がった。
「‥イワンの奴、何とか元気になれたみたいだな。」
手にした缶ビールを飲み干すとそのままテーブルに転がす。リビングテーブルの上ではカラカラと乾いたアルミ缶の音が響いた。
その時だった。訪問客など滅多に訪れることのない古いアパートメントの玄関のチャイムが鳴り響いたのは。
‥おいおい、またセールスかよ、最近のセールスはしつこくなったな。この間、断っただろうが!
虎徹は、口の中で、もごもごと不平を呟くと、痛む肩を押さえながら立ち上がり、リビングの壁に取り付けられているインターホンの受話器を取った。
「‥間に合っていますよ!俺には新しいアパートメントを買う金なんてありませんから!」
「‥‥‥‥‥。」
インターホンの向こう側からは返事はない。
‥買いそうにないとなったら、さっさと退散したな!
呆気なく去られると勝手なもので腹が立つ。
不愉快な気分でインターホンの受話器を置こうとした時だった。
「‥バーナビーですが。」
低くてよい声だが、感情はない。
「‥まさか、貴方に質の悪いセールスと勘違いされるとは思っていませんでした。だいたい、ここのインターホンにはカメラは付いていないんですか?」
冷たい返事が返ってくる。
‥あのな、お前んとこみたいなペントハウスじゃねぇんだから。
「‥どうしたんだ。」
「‥別に。あなたが勝手に病院から帰ってしまったと聞いて、上司から確認してくるように言われただけです。」
「‥はあ?」
もっとも用があるから、相棒はくるわけで‥。
「それより、開けていただけませんか。」
「わ、わりぃな!すぐ開ける!」
****
プラチナブロンドの背の高い青年は淡い緑色の瞳で、じろりと男を一瞥すると散らかっているリビングへ視線を移した。
「‥本当は念のために一、二日は入院した方がいいと言われたそうですが。」
「‥ああ、でも大丈夫だし。」
「は?大丈夫ではないから、医師は貴方に入院を勧めたのでしょう。それを強引に帰って来るなんて、どうかしていると思います。ロイズさんも怒っていましたよ。」
「何言ってんだ、あの上司野郎はいつも怒ってるだろうが。どうせ、病院から何か言われたんだろうさ。労務違反とか、何とか。それだけさ。」
青年はソファーの前の散らかったテーブルを見る。テーブルの上には缶ビールの空き缶やインスタントヌードルの空き容器、スナック菓子類の袋が散らばっている。
「‥‥‥‥‥‥‥。」
「ま、兎に角座れよ。」
そういって、虎徹はソファーの上の新聞や雑誌を退けて場所を作った。すると隅に積み重ねてあった薄いパンフレットや雑誌が床へ雪崩れ落ちる。
「入院した方がいい身で、ビールですか。」
背を屈めて、青年はテーブルの上の空き缶を手に取る。
「い、いや、喉が渇いちまって‥。」
「スポーツドリンクか、ミネラルウォーター、或いは野菜ジュースはないのですか?」
眼鏡のレンズ越しに水色の瞳が睨んでいる。
「い、いや、何か作ろうかと思ったんだけどな、こう身体が痛くちゃ、立ってるのも難儀でな。」
「‥それでしたら、病院にいた方がよかったんじゃないでしょうか。少なくともまともな食事が出ると思いますが。」
批判的な眼差しで、男を見下ろす背の高い青年に、虎徹は大きなため息を付いた。
「もう、分ったから‥、勘弁してくれよ、バニー。折角の酔いが冷めちまう。」
一言いうなり、そのまま仰向けに、ばたりとソファーに寝転ぶ。
「‥ただでさえ、傷が痛むんだからな。」
クッションを頬と肩の下へ引きずり込むと、面倒くさそうに片手を振った。
「俺の確認が終わったら、ロイズさんに報告しておいてくれよ。元気みたいですよって。」
「‥‥‥‥‥。」
虎徹の言葉に返事を返すことなく、バーナビーは部屋の中を見回す。帰りそうにないその雰囲気に虎徹がソファの上に身を起こした。
「なんだよ、バニー?」
「‥キッチンは何処です?」
感情のない冷徹な声。
「‥そこの奥だけど‥何か飲むか?冷蔵庫に何かあると思うけど‥。ちょっと待て。探して来てやるから。」
痛そうに肩を押さえながら、虎徹がソファから立ち上がろうとした。
「結構です。自分で行きますから。それに別に飲み物など必要ありません。喉は乾いていませんので。」
虎徹を無視して奥のキッチンへさっさと歩いていく。そのまま長身がキッチンへと消えた。
「‥何だよ。病院から帰ってきたことを根に持ってんのか‥。アイツには関係ないだろうに。」
虎徹はガリガリと頭を掻いた。
「いいえ、違います。誤解のないように言っておきますが、貴方に怪我をさせてしまったことには、一応僕にも責任があることは自覚しています。」
突然、バーナビーがキッチンの入口から顔をだした。
‥うわ、聞こえないよう小声で言った筈なのに、此奴とんでもねぇ‥どんな耳をしてるんだ。
「‥ところで今日の食事はどうしました?」
「見りゃ、わかるだろう。ビール!あと、インスタントヌードルをとか。」
再び、キッチンのドアから、ひょいと青年が顔を出す。
「‥‥ちゃんと飯食ってんのか、って仰ったのは何方でしたっけ。」
「‥いや、今日はたまたま‥。」
ばつが悪そうに、虎徹が頬を掻いた。
青年は、それ以上何も言わずに、再びキッチンに姿を消す。
‥何なんだ‥今日のバニーは。人んちのキッチンまで入りやがって。
キッチンの方から、冷蔵をを開ける音がし、棚の中を探る音がする。
「‥結構、いろいろありますね。野菜もあるし、缶詰もあるし。普段は炊事をしているみたいですね。」
「‥だから、言っただろ、たまたまだって!」」
キッチンへ向かって虎徹が叫んだ。
「そんな大きな声を出さなくても聞こえていますよ!」
すかさずキッチンから鋭い返事が返ってくる。
‥いちいち細かい野郎だぜ。
「‥スープで構いませんか?」
キッチンに隠れて姿は見えないが静かな青年の声。
「‥小さい頃、ボクが病気で寝込むとサマンサおばさんスープを作ってくれました。」
穏やかな声色で懐かしい思い出を語る。
「ボクには簡単なものしか作れませんけど、スープくらいなら作れると思います。あと、果物もあるようだし、それも出します。」
「別にいらねぇよ、どうせボンボンのお前に料理なんか作れないだろ。」
「‥今、何ていいました?ちゃんとできますから!だらしなく暮らしている貴方と一緒にしないでください。これでもボクは、充分きちんと独り暮らしをしていますから!」
いきなり極めて不機嫌な声が響き渡った。虎徹としては、インテリの上流階級出身のバーナビーの出自をからかったつもりはなかった。わざわざ飯の支度なんぞ、お前のすることじゃないさ、そう言ったつもりだった。しかし、彼には只の侮辱に感じられたのかもしれない。
気が付けば部屋の中は、ぎこちない沈黙が支配していた。バーナビーは虎徹の気の回らない発言以来、すっかり口を利かなくなっている。キッチンからは冷蔵をを開ける音。食器を出す音。鍋や調理道具の金属の擦れ合う音だけが聞こえてくる。
けれど、キッチンボードの上で野菜が刻まれる小気味良い音が始まった。懐かしい気配だった。
雑誌や新聞の溢れかえったソファーで寝転びながら、虎徹はテレビのリモコンスイッチを、やはり同じく散らかったテーブルの上から手探りで探し出すと、見ていた録画のドラマを消した。テレビから聞こえていた賑やかな雑音が消える。あとは、キッチンからの音しか聞こえて来ない。
昔、結婚したばかりの頃、ヒーロー稼業に明け暮れて、漸く家に帰ってくると、妻が急いで飯を作ってくれたっけ。いつ帰ってくるか分らない夫の帰りを待ち侘びながら暮らしていた妻。どんなに寂しかっただろうと思う。今、独り暮らしをしてみて身につまされている寂しさだった。
彼女は帰宅して草臥れきった自分に優しく微笑み、手際よく料理を作り、飲み物を用意してくれた。あの頃は、彼女も働いていたから、きっと大変だったんだろうな。
‥けど、俺たちが一緒にいられた時間は少なかった‥。
俺は罪作りな男だったよな‥。今ならそう思う。
恐ろしいほど悲しいことだが、死んだ者は決して帰ってくることはない。それは紛れもない真実だった。
妻の死に目には会えず、妻の死後、仕事のために手放さざる得なかった一人娘の楓は、父と暮らせず寂しい思いをしているに違いない。
キッチンからは出来上がりつつあるスープのいい匂いが漂って来ていた。
虎徹は目を閉じる。‥帰ってきたんだ。
帰ってきたんだ。漸く。‥今回は疲れたな。うっかり怪我しちまったし、心配かけて悪かった。今度は、絶対に辛い思いはさせねぇぞ。楓も一緒に暮らそうな。昔みたいに三人で仲良く‥。
きっと、彼女はキッチンから出てくる。そして自分に言う。
「あなた、ご飯できたわよ。楓も呼んで頂戴。」
なんて優しく明るい声。やっぱり戻ってきたんだな。辛い思いをさせてすまなかった‥。本当にすまなかった。
‥やり直そう、もう一度な。
****
青年はスープを乗せたトレイを持ったまま、立ち竦んでいた。
目の前にはソファーで眠りこけている中年の男。大きな鼾まで掻いている。
「‥少しは待てなかったんですか。僕としては手早く作ったんですよ。」
酒の所為でもあるのか、眠りこけた男は起きそうになかった。
バーナビーは肩を上下させて、盛大な溜息を洩らした。
手元のトレイの上の皿からはスープの温かい湯気が立ち、いい匂いが立ち昇っている。
この様子だと朝まで起きないだろう。
眠りこけている男の寝ているソファーの足元には、毛羽立った古い色褪せた毛布が落ちていた。
バーナビーは背を屈めてトレイをテーブルの上に置く。そして、その毛布を拾い上げた。
暫く広げて眺めまわし、長いこと洗濯していないらしい毛布に眉を顰めた。そして、今度は辺りも見回してみるが、リビングには他に毛布らしきものはなかった。‥寝室は?
だが、寝室に入るのは、どう考えてもマナー違反に当たる。育ちの良い青年には、マナーに触れる行為をする気はなかった。
青年は仕方なく、その毛布を広げて、鼾をかいている男に掛けてやる。
その拍子に、もぞもぞと男が寝返りを打ち、男が枕代わりにしているクッションの下から何かが、ことりと床へ落ちた。
それは木のフレームに囲まれた小さな写真だった。
写真には東アジア系らしい黒い長い髪の若い女性。優しく微笑んでいる。穢れない一輪の野の花のような女性だった。隣には、今より一回り若い頃の虎徹が写っていた。
‥そういえば、誰かに‥アントニオだったか、虎徹は学生結婚した愛妻を、数年前、病で亡くしていると聞いたことがあった。
‥恐らく、その妻の写真に違いない。
バーナビーは床に落ちた写真を拾い上げ、掌で丁寧に埃を払う。そして、虎徹が頭を載せて眠っているソファーのクッションの隣へそっと置いたのだった。
あとがき
以前に書いたお話です。勿体ないから書き足してUP。8話の後に書いたんだと思います。
8話でしたっけ、バーナビーを庇って怪我をしたのは?
他の方の話は殆ど読んでいないので、どんな方向性で書いたらいいのかわかりませんが
好きに書いてみました。しかし、T&Bは凄い人気ですよね。次回、最終回だ‥!
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