夕暮れ
「‥えっ、慰安旅行?おじいちゃん達が?」
早々学校から帰宅したのに、不思議なほど閑散とした本家の中で、リクオが訳が分からず首を傾げていると、奥から現れた首無が、そう告げた。
「‥ええ、古参の妖怪たちと温泉へ一泊旅行ですよ。私どもは、リクオ様の側近ですから、留守番班です。万が一、シマで何かあったときリクオ様をお助けしないといけませんので、全員で出掛けることは不可能です。」
「ありがとう、首無。ボクの事を気に掛けてくれて。でも、もし今度慰安旅行があったら、是非、出掛けてきて。ボクに気を使う必要はないからね。」
「‥いいえ。お気遣いなく。リクオ様。」
両手に荷物を抱えたままで、にっこりと首無が微笑んだ。
いつもは帰宅すると、あっという間にリクオの回りには小妖怪たちが集まって纏わりついては世話を焼きたがり、鬱陶しく思うこともあるのだが、勝手なもので、いなければいないで少し物足りない気もした。
「それは、そうとリクオ様。湯殿の準備は整っています。偶には、御一人で一番風呂を楽しまれてはいかがですか。」
そう言われて、リクオは
「‥そうだなあ、先ずは、ゆっくりお風呂でも入ってこようかなあ。」
と考える様に独り言を言った。
「そうですよ。今日はリクオ様と一緒にお風呂に入りたがる、小妖怪たちが出かけていますから、のんびり湯浴みなさってください。お風呂場は貸切状態だと思いますよ。」
そう言いながら、首無は、楽しげに廊下を歩いて行った。今日は妖怪たちが少なくて仕事量が少ないのだろう。すこぶる機嫌がいいようだ。
****
「うわぁ、本当に貸切だ!もしかして、本当にボクが一番風呂かな。」
いつもなら、祖父のぬらりひょんが古参の小妖怪たちと入浴した後に、風呂に入ることが多いリクオは、嬉さに思わず笑みが零れる。今日は、小妖怪たちが投入してしまう入浴剤の香りが無い。本当に一番風呂らしかった。夕餉までには、まだ時間があり、明るい時間帯の入浴になる。
風呂場の片隅から、まだ乾いている檜の椅子を洗い場のところまで持ってくると腰かけ、リクオは上機嫌で乾いている洗面器に湯を張った。
その時だった。
--がらり
擦りガラスの入り口の戸が開く音がした。
‥せっかく、貸切だと思ったのに。
少しがっかりしたリクオが入り口を見る。其処には人影が立っていた。‥湯気に覆われて見えにくいが、何となく見慣れた人影のような気がする。人影が動き、片手を上げた。
「‥ぜ、ぜ、鴆くん!」
其処に立っていたのは、薬師一派の頭でもある鴆だった。一派の頭領の鴆は、本来本家にいる妖怪ではない。薬鴆堂という奴良組が頼りにしている診療所を営んでおり、総会、出入りの時以外は、その薬鴆堂にいるか、往診に出かけていることが多い。出入りもなく、総会でもないのに、本家に居る筈はなかった。
「おう、リクオか!お帰り。今日は帰りが早ぇな!」
手拭いを腰に巻いた姿で、薬師の妖が機嫌よく笑った。
「‥うん、今日は生徒会がなかったから。‥って、鴆くん、どうして此処にいるの!?」
と、リクオが問えば、男が口の端の両端を持ち上げて、得意げに笑った。
「ぬらりひょんさまが出かけるから、本家が手薄になるらしいって聞いて、駆け付けたのよ。こんな時、薬師一派の頭領として、忠義心を見せねえとな。」
‥いや、病弱の鴆には、本家に駆けつける暇があるくらいなら、薬鴆堂で休養してもらいたいと思うのだが‥。
「それよりリクオ、折角だから背中流してやろうか。」
少し背を屈めて、愉快そうに提案する。
「‥別にいいよ。自分でするから。それに鴆君も、せっかく本家に来たんだから、ゆっくり寛いでお風呂入ったら。」
そう言って、リクオが男を振り返ると、不機嫌そうな表情をしている。
「ど、どうしたの、鴆くん、ボク、鴆くんの気に障ること言った?」
男は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「鴆くん、本家だからって、ボクに気を遣わなくていいんだよ。」
「‥おめぇ、いつもは取り巻きの小妖怪たちに背中を流させているって聞いてたからよ。」
そう言われて、少年は照れたように頭を掻いた。
「あ、それね。勝手に小妖怪たちが背中を流して面白がっているだけで、別にさせているわけじゃないよ。湯船が混んじゃうから、手が空いた納豆小僧たちが頭を洗ってくれたり、背中を流してくれたりするだけだよ。湯船に全員入り切れなくてさ。」
「‥オレじゃ、ダメか。」
心持ち、鴆の声が沈んでいるような‥。
「そ、そういう事じゃなくて‥。湯船に入りきれない妖怪たちが‥。」
「‥確かに、オレじゃ役不足だよな。」
「ち、違うよ!貸元の頭領にそんなことさせられないから。ただ、それだけだよ!」
「オレは病気がちだし、体力ねぇし、何かの拍子に血なんか吐いたら、おめぇを汚すしな‥。」
がっくりと肩を落とした男がリクオの洗い場の隣に檜の椅子を引き摺ってくると腰を掛けた。
「鴆くん、別に、そういう意味じゃ‥。」
さっきまで威勢の良かった薬師一派の頭領の落胆は見ていて辛い。
「じゃ、じゃあ、背中だけ、流してもらいたいなぁ‥。」
‥なんかもう、ゆっくり入浴どころじゃなくなってきた気がする。
「おっ、そうか!ちっせえ頃から一緒に風呂に入った仲だもんな。二人で背中の流しあいっこしたよな。」
「‥うん、お風呂の中で遊んだね。」
思い起こせば懐かしい思い出だった。僕たちは仲が良くて、お母さんも呆れていたっけ。男は上機嫌で、手拭いに石鹸を含ませるとリクオの背中を擦り始める。
「ありがとう、鴆くん。昔の事を思い出しちゃった。いつも鴆くんが、ボクの世話を焼いて、洗ってくれたんだよね。ボクったら、それが当然だと思い込んでいたよね。」
「おう、おめぇは、まだ小さくてよ、オレが本家に来ると、オレと一緒じゃなきゃ、風呂へ入んねぇとか言って、首無達を困らせていたよな。」
「‥うん、そうだった。ボク、鴆くんが遊びに来てくれるのが楽しみだったんだ。とっても。」
「そうか、オレも何だか頼りにされてるみてぇで嬉しかったぜ。そうだ、そん時みてぇに頭も洗ってやろうか。」
「うん、ありがとう。」
鴆は、石鹸を手でよく泡立てると、リクオの髪を掻き混ぜる様に洗い始めた。ちょっと大雑把なところは元服前の鴆と同じだ。
「おい、流すぞ。目ぇ瞑れ。」
そう言われたリクオが慌てて目を固く瞑ると、さぶんと湯が掛けられた。懐かしい。ほんと、こんな感じで頭を洗ってくれたっけ。
「おお、そうだ。その脚の上の手拭いも退けろよ。」
少年が下腹部を覆うように腿の上に掛けている手拭いを指さした。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥。」
「リクオ、聞いてんのか、退けろよ。」
「‥‥て、手拭いは、いつも此処に置いているから、これでいいよ。」
すると、何故か男が少し顔を赤らめる。
「‥何だな、せっかくだから、前も洗ってやるから。」
「ま、前って‥い、いらないよ!いつも自分で洗っているから、いらない!」
「オレとお前の仲だろうが。気にすんな。」
腿に乗せている手拭いに手を伸ばそうとする男に、リクオが両手で手拭いを抑えて抵抗する。
「ちょっと、鴆くん!セクハラっていう言葉を知ってる?この間、奴良組の幹部研修でやったよね!」
合点がいったとばかり、鴆が、おう、と大きく頷く。
「‥アレだろ、男の上役が手下の女に‥とかいうヤツだろ。だいたい、おめぇが上役だし、それにオレは義兄弟で男だし、関係ねぇだろう?」
半ば強引にリクオの手拭いを掴んで奪おうとする
「そういうことじゃないでしょ!此処、本家のお風呂なんだよ。薬鴆堂のお風呂じゃないんだよ。いつ誰が入ってくるかわからないのに、そんなことされたら困るよ!」
真っ青になった表情で少年が訴える。
「‥何言ってんだ、小さい頃、この本家の風呂場で体全部洗ってやったことあるだろうが、誰も気にしねぇよ。」
「それ、小さい時の事でしょ!小学校へ入る前の!今、もう大人だから!」
焦りながら主張するリクオに、男が堪えきれないといった感じで、ぷっと噴き出した。
「大人か!そうだな、夜のお前は大人だと思うぜ!けど、今のお前は、まだ、もうちっと‥。」
途端、震える声が少年から洩れる。
「‥酷い!鴆くん!酷いよ!僕の事、背が低くて、発育が遅くて、問題があるって言った!凄く気にしているのに‥酷い。」
「言ってねぇよ!拡大解釈するんじゃねぇ!」
涙目になった少年に男が狼狽えた。
「‥わ、悪かったな。考えてみりゃ、つい子ども扱いしちまったけど年頃になったんだよな。」
背後で諦めたらしい溜息が聞こえた。リクオが男を肩越しに振り返る。
痩せた男の上半身を彩る艶やかな蘇芳色の刺青。白く湯気で煙る浴室の中で、その刺青は、より鮮明に浮かび上がっていた。その妖艶さにリクオは、思わず息を呑む。
「‥別に、嫌だとか、そういうんじゃないよ‥。ただ‥‥。」
****
--かぽーん‥
広い本家の浴室に湯の音が響き渡った。
「‥だから、やめてって言ったんだよね。」
リクオが湯船に顔の半分まで浸かり、湯の中へブクブクと泡を吹きながら、男に聞こえぬよう呟いた。目の前の洗い場で、男が湯桶の湯で体を流している。そして、立ち上がった。
「あのな、リクオ、お前は総大将なんだから、もうちっと、しっかりしろ。」
「‥‥‥‥‥。」
立ち上がった男が桶を洗い場の片隅に置くと、リクオが浸かっている湯船にところまでくる。
「いくら傘下の貸元とはいえ、薬師一派の頭領に、アッチの方の世話させるなんて、どうかしてるっぜ。そりゃ、オレとお前の仲だから、オレは構わないけどよ。‥って、まさか、他の連中にやらせたりしてねぇだろうな。」
心なしか男の眦が上がっている。
「‥してないよ‥だいたい、誰も、ボクのあんなところ洗わないし。」
湯船に片足から入りながら、鴆はまだ、リクオを咎め立てするような視線で見ている。
「それにしてもだ、夕方とは言え、まだ明るいうちから盛るなよな。オレじゃなけりゃ、ヤバいことになっていたかもしんねえぞ。」
「‥‥‥‥‥‥‥‥。」
全身が湯に浸かると、鴆は両手で顔を擦りながら、リクオのすぐ隣にやってくる。
「ま、オレも、お返しにアッチの方も面倒見てもらったから、仲良くあいこだな。」
そうリクオに耳打ちすると、一転して、上機嫌になった。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥。」
「おう、そうだ、リクオ。いい酒、持ってきたぜ。日が暮れて、夜の姿になったらよ、晩飯食いながら、一杯やろうぜ。」
右手で猪口を持つ仕草をしながら、鴆はリクオに笑いかけた。が、少年は困ったような表情をする。
「‥夜の姿になったらね。もう暫くは、無理だと思うよ。」
「‥まあな。」
‥この貸元の薬師頭領は、結局、昼の自分のことは子ども扱いで、夜の三代目待ち。‥何となく面白くないと思う。
少々不愉快な気持ちで見れば、温かな湯の中で薬師の妖は湯船の縁に片腕を掛けて、気持ちよさそうに目を瞑っていた。
「鴆くん。」
リクオの呼びかけに、男が閉じていた目を開く。白い湯けむりの中に萌黄色の瞳が瞬いた。
「リクオ?」
少年は、湯を掻き分けて男のすぐ傍まで来ると、自分の顔を近づけた。そして、突然、両手で男の両肩を手荒に掴んで自分の唇を男の唇へ乱暴に重ねたのだった。更に一方的に舌を差し入れて絡ませ、夜の自分と寸分違わぬ大人の口付けを与えてみせる。リクオの思いもよらぬ行為に男の瞳が大きく見開かれたことが分かった。
「じゃ、ボクは先に上がるから。鴆くんは、ゆっくり温まるといいよ。」
ざぶりと湯から上がりながら、少年は、にっこりと余裕の微笑みを見せる。そして、想定外の出来事に呆然としている薬師の男を残して、堂々と風呂場を後にしたのだった。
あとがき
偶には、ちょっと違った志向の文で‥番外編?
しょうもない感じですが、ちょっとだけ、リクオ君の勝ち(笑)
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