山帰来1
目の前には、薬鴆堂の表門が見えていた。常夜灯代わりの鬼火が、ふらふらと頼りなげに門の周りを飛んでいる。
だが、肝心のリクオの足は止まったままで、それ以上先へ進むことは出来なかった。もしかしたら鴆は自分を待っているのかもしれないと思う。いや、もうややこしい事は御免だと、仕事に専念したいと思っているのかもしれない。次の総会までは一月程あり、自然な形で会うことは暫く叶わないだろう。
それより会って、一体何を言えばいいのか。何事のなかったかのように、ただ酒を酌み交わせばいいのか、それともじっくり話をしたらいいのか・・。話をするとしても何の話をすればいいのか。今は鴆の過去の女の話など聞きたくなかった。魔が差したような一時的なものだったことも分かったし、鴆が女たちに良いように利用されただけだという事も分かっている。そのため、鴆一派の頭領として厳しい立場に立たされる結果になったことも。でも、それでも、女たちと行った淫らな行為のことも思うと胸を掻き毟られる。
・・まだ、全てを諦観するまでに至れなかった。昔は気にならなかったことが、今になってどうして気になるのか、以前なら笑ってやり過ごせた事が、今はどうしてやり過ごせないのか、自分でもわからない。表門の前で立ち竦んだままのリクオの傍らで、乗ってきた蛇妖が不思議そうにとぐろを巻いていた。いつもなら薬鴆堂の池の傍で寝ているはずなのに、主は立ち止まったままだからだろう。
リクオは躊躇いつつも、ゆっくりと踵を返した。そして、薬鴆堂を背に重い足取りで来た道を、一層重い足取りで帰っていくのだった。
****
どこかで懐かしい父の呼び声が聞こえたような気がした。
思わずリクオは我に返る。そして我に返って辺りを見回すと、そこは濃い白霧に包まれ、茫々と果てないところだった。
・・これ以上先へ進んではいけない。自分の本能がそれを警告していた。これ以上は・・。
だが、自分は進まなくてはいけないのだ。必ず探さなくてはいけない。探して、掴まえないと手遅れになってしまう。
・・一体何が?
少年は、ただ只管、足を動かし続け、前へと歩いていく。
どれほど歩いたのだろうか。気の遠くなるような長い時間だったような気もするし、一瞬だったような気もする。遥か前方を一人の男が歩いていた。
リクオは霧の中で目を凝らした。
羽根の紋様が散らされた濃紺の糸織羽織。鴆に違いなかった。前へと歩いているらしく、肩が左右に揺れている。
呼び止めないといけない。今すぐに。・・出ないと手遅れになる。
「鴆くん!」
だが、男は振り返らなかった。気付きもしない。
「鴆!」
自分の喉から、よく通る低い声が出た。
一瞬、男が足を止めた。そして辺りを見回しているが、霧の所為かリクオには気が付いていないようだった。少し首を傾げたが、再び前に向かって歩き出す。
「鴆くん、待って!」
男がまた、足を止めた。立ち止まって振り返る。リクオが駆け出した。
「鴆、動くな!そこで待っていろ!」
低い声が、高めの少年の声を補うように言い継ぐ。
駆け寄る自分に男の姿が近づいて来る。・・見慣れた薬鴆堂の濃紺の羽織。幼い頃から知っている鴆一派の頭領が、目の前に立っていた。
「・・鴆くん。」
だが男がリクオを拒むかのように首を振り、肩に纏う羽織の袷を深くする。
「・・おい、鴆。」
リクオの声に男は寂しげに微笑んだ。そして、静かにリクオから離れていこうとする。
「鴆くん、一体・・何処へ・・。」
男が振り返り、リクオの言葉そのものをを拒むかのように、再び首を振る。そして、その去ろうとする姿は、いつの間にか、透き通った鶸色の羽を持つ、大きな鳥となった。美しい模様に彩られた長い尾羽。羽根一枚一枚が光に包まれて虹色に輝いている。そして、何を思ったのか、大きな翼を広げて羽ばたきを始めた。優美な細い脚が、今まさに地面を蹴ろうとしていた。
・・いけない、今、引き止めないと全てが手遅れになってしまう。
「鴆くん!待って!勝手に行かないで!もう直ぐ出入りもあるし、奴良組には薬師がいないと!」
少年の声に、鳥が羽ばたきをやめて、首をこちらに向けた。
「・・行かないで!今、行ってしまったら。戻って来れないよ。・・行かないで」
自分は、何を言っているのだろう。鴆がどこへ行ってしまうというのだろう。初代の祖父の代から薬師一派の頭領は、総大将と共にあったのだ。奴良組を離れることなど、絶対ありえない。ましてや、今の頭領の鴆となれば・・。
鳥が首を振る。そして、潤んだ硝子のような円い瞳で少年を見つめ返した。
「お願い、鴆くん、ボクを置いて行かないで・・。あの日のお父さんみたいに。」
目の前で光の粒ような山吹の花弁が散ったような気がした。
少年は、瑠璃の輝きを持つ儚い鳥に、静かに手を差し伸べる。
****
障子を通して、淡い朝の光が部屋に届いていた。自分の手が宙に差し出されたままになっている。
「・・夢か。」
少年は差し出した手を上掛けの上へ降ろした。映像のように妙に臨場感のある夢だったと思う。考えてみれば、暫く薬鴆堂へも行っていないし、鴆にも会っていなかった。
少年は酷く気力を消耗したような心地がして溜息を付いた。・・そろそろ本家らしい朝の喧騒が始まる時間だった。廊下を走ってくる大きな音が近づいてくる。・・いつもなら雪女や納豆小僧が歩きながら、皆を明るい声で起こすのだが、今日に限って、バタバタと走る音だけが近づいてくる。その物音が部屋の前でぴたりと止まった。
「リクオ様。起きていらっしゃいますか。」
広い本家の廊下を走って、息を切らせたままの首無の声が聞こえた。
「うん、もう起きているよ。」
一瞬の間があった。
「今、連絡が入ったのですが、鴆様がお倒れになったそうです。」
その言葉にリクオが布団から飛び起きて、障子を開けた。
「鴆くんが倒れたの?」
「・・ええ。今、薬鴆堂の番頭さんが来ています。何でも離れの自室で倒れておられたそうです。離れは人払いされていますので、番頭や門弟たちも気付くのが遅くなったらしくて。・・見つけたときには、既に意識が無かったと。」
血の気が引いていくのが分かる。
「今、門弟たちの治療を受けていらっしゃいますが、このまま亡くなられる可能性もあるとのこと。万が一に備えて、鴆一派から新しい頭領を仮襲名させる手はずを整えてくださいと番頭さんが・・。」
「新しい頭領って・・。」
手が震えている。
「門弟たちの名前が書かれた目録と鴆様の次期頭領の指名提案書も一緒に届けられています。鴆さま直筆の書状だそうです。」
「・・どういうこと?」
「鴆さまは、御兄弟も御子もおられませんので、不測の事態に備えて、次期頭領の指名に関して、総大将に意見書を作成していたそうです。」
「・・・・・・・・・。」
「あと、鴆さまが前々からおっしゃっていたそうなんですが、薬鴆堂は診療所なので、その性質上、完全に閉めるわけにも行かない。万が一のときは本家で葬儀を出してもらえないかと。あと墓は、亡き両親の所へと。」
「・・・・・・・・・・。」
--死んだ後の新頭領の襲名?薬鴆堂は閉められないから葬儀は本家で?そしてお墓?
頭の中が混乱して、何が何だかわからない。そんな話、鴆から聞かされたこともない。・・まさしく初耳だった。
「兎に角、リクオ様には、なるべく迷惑をかけないように、と以前から言っておられたと、今、番頭さんが・・。」
「・・ま、まだ、鴆くん、生きているんだよね?」
「はい、ですが、意識が戻らないので、万が一に備えて欲しいとのことです。」
首無の表情は、緊張しているのか硬い。
「・・今すぐ薬鴆堂へ行く!話はそれから!誰か、朧車を用意して!」
リクオが腰紐を解いて寝間着を脱ぎ捨てると、長襦袢を身に付け急いで身支度を始めた。今度は黒田坊が慌ててやってきた。
「リクオさま。たった今、鴆一族の古老会の先触れの者が到着しました。鴆一族の古老会が次期頭領については、推挙したい人物がいるそうで、当代鴆の意見書は白紙撤回して欲しいと連絡が・・。」
「何言っているの!鴆くん、まだ生きているんでしょ!白紙撤回って・・何!」
少年が長着を整え終わり、さらに羽織に袖を通しながら憤った声を出した。
「・・まるで、鴆さまが倒れるのを待っていたかのようですね・・。」
伝言を伝えにきた黒田坊も困惑した表情をしていた。今度もまた、外廊下のほうで、ぴたぴたという大きな足音が近づいてきた。
「三代目!」
開け放たれた障子から、蛙の番頭が、板間に張り付くような音を立てながら走りこんできた。手には薬鴆堂お仕着せの携帯電話が握られている。
「・・い、今、連絡が入ったんですが、鴆さまが意識を取り戻されたそうです。・・たった今です。」
リクオの周りで不安げに立ちすくんでいた首無たちからは、一斉に安堵の溜息が漏れた。
「・・で、ですが、まだ、どうなるか・・は・・・。」
一報は伝えにきたものの、うろたえたままの番頭がリクオを不安げに見た。リクオは静かに頷く。安堵したのもつかの間、それを見計らったかのごとく青田坊が駆け込んでくる。
「三代目!朧車の準備ができました。リクオさまは、早く玄関へ。鴉天狗様に付き添ってもらうから、誰か探して呼んで来てくれ。」
リクオに朧車の用意を伝え終わると、今度は後ろを向き直り廊下に向かって人を呼ぶ。丁度、通りかかった黒羽丸が、それを聞いて慌ててどこかへ走り去っていった。
「・・番頭さんは、ボクと一緒に乗って薬鴆堂へ帰る?」
リクオは傍らの蛙の妖怪に声を掛けてやるが、番頭は、何故か頑なに首を振った。
「鴆様からは、自分が死んだときは、新頭領が正式に決まるまでは、本家に留まるようにいわれています。それまで鴆さま直筆の書状も、本家の外には決して持ち出すことのないようにとも。ですから、鴆さまの状況がはっきりするまでは、ここにいさせていただきたいのですが・・。」
「構わないよ。・・誰か番頭さんにお部屋を用意してあげて。」
すると、廊下で控えていた雪女が部屋を準備するからと、どこかへ去っていった。
リクオは、其のまま蛙番頭の傍を離れると自分の羽織の紐を結びながら、早足で玄関へ急ぐ。
母屋の玄関には、母親の若菜が緊張した面持ちで、風呂敷包みを抱え草履を揃えて待っていた。
「リクオ、何かあったら直ぐ知らせてね。おじいちゃんにも伝えたんだけど、二人とも留守にしないほうがいいからって。おじいちゃんは本家で待機しているそうよ。」
若菜がリクオに風呂敷包みを渡す。
「うん、おじいちゃんにも何かあったら電話するからって言っておいて。兎に角、鴉天狗と様子を見に行ってくるね。」
こくりと若菜が頷いた。
「それ、着替えとか入れておいたから。リクオの大事な義兄弟の鴆君のことだもの、場合によっては、二、三日ここへは帰れないんじゃないかと思って。」
「・・ありがとう、お母さん。」
草履を履いて玄関の広い土間を出ると、玄関の前には既に朧車が止まっており、青田坊が朧車の乗り込み口の後簾を上げて待っていた。早速、手を取ってもらい、踏板に足を掛けて中へ乗り込む。すると、すぐに後簾が降ろされた。
「リクオ様が朧車に乗られたぞ!おーい!鴉天狗はどこだ!」
青田坊が大声を張り上げた。
「青!ここにおる!リクオさま!お供いたしますぞ!」
庭から風を切って飛んできた鴉天狗が、後簾の隙間へ勢い良く飛び込んだ。
「よし!総大将の朧車が出るぞ!前にいる奴は退けよ!」
青田坊が、再び、声を張り上げた。
すると、あちこちで本家の妖怪たちが互いに声を掛ける声が聞こえ、朧車が表門へ向かって動き出したときのことだった。
表門の外でリクオの朧車の見送りのために立っていた筈の小妖怪が、リクオの朧車に向かって血相を変えて走ってくる。
「一台の朧車がこっちへ向かってるのが見えます!鴆一族の家紋が入っている朧車です!凄い勢いで表門の方へ向かって来ています!」
「奴良組三代目総大将のリクオ様の朧車の出発が最優先だ!来る貸元の朧車には、表門の外で、一旦、止まってもらえ!」
青田坊の指示に、慌てて表門の外に走り出た妖怪たちが向かってくる朧車に停止するよう合図を懸命に出すが、止まる気配が無い。
「ちっ!こっちの合図が見えてねぇのか!仕方ない、取り敢えずリクオ様の朧車を下げろ!ぶつかったら危ねぇ!」
青田坊の怒鳴り声が聞こえ、リクオが、物見の小窓から外を見ると朧車が玄関ぎりぎりまで下がっていく。玄関の土間には母親の若菜が不安そうな表情で立っていた。
「・・リクオ様。」
御簾から出て辺りを羽ばたいて様子を窺っていた鴉天狗が、物見に顔を覗かせたリクオに囁いた。
「あの朧車、鴆一族の旧勢力であった古老会の朧車です。その昔、奴良組の貸元になることを最後まで反対した派閥なのです。ですから自分たちを奴良組の貸元とは考えておりません。」
「・・さっき先触れがきたっていう鴆一族の古老の?」
「そうです。」
次の瞬間、ごうっという風と共に霧雲が立ち込め、外からやってきた朧車の到着する轟音が響き渡った。
「あっちが到着したんだったら、こっちを早く出して!急いでいるんだ!」
屋形の中から急き立てるリクオの声にも朧車の周りは、相変わらず、ざわついたままで、静かにならず朧車も出る様子が無かった。
「リクオさま。」
前方に回って様子を見ていた鴉天狗が朧車の中のリクオの所へ戻ってくる。
「古老会の連中は、表門の真正面に朧車を止めました。」
「真正面って・・。」
「ですから、こちらの朧車は出せません。体よく出口を塞がれたのです。」
「・・えっ。」
驚いて声も出なかった。ここは奴良組の本家で、しかも自分はそれを束ねている総大将の立場なのだ。一貸元の朧車が本家総大将の朧車の行く手を塞ぐ・・。しかも表門で。こんな状況は普通なら在り得ない。
「薬師一派、いろいろと大変とは御隠居様から聞いていましたが、本家に対してまで此処までするとは・・。聞きしに勝る御仁のようで。鴆さまも襲名したばかりの頃は、それは大変だったと伺いましたが、確かに、一筋縄ではいかない古老たちを抱えておると見えます。」
あれっ・・全然終わらない?・・(゜ロ゜)
まさか、また続き物になるんでしょうか・・(滝汗)
続き物には自信が無い・・んですが・・orz 挫折したら、すみません・・。ほんと、すみません。笑って見逃してください・・。
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