寄り道
「じゃあ、また明日。」
リクオは、校門を出ると同じ生徒会の仲間たちに手を振り、駅に向かって歩き出した。真っ直ぐな通りの並木道は、漸く涼しくなった風が吹き、肌に心地よかった。
昼間は暑いが朝晩は冷え込むようになり、確実に秋が訪れている。少年が夕闇が迫りつつある空を見上げた。高い空をを鰯雲が流れていく。そんな少年の傍らをすいっと、赤蜻蛉が通り抜けていった。
森と池を持つ広い緑地公園の近い通りならではの光景だった。公園の人の入らぬ保全林には日陰を好む妖が少なからず棲みついていることも知っていた。本家の妖怪達も好ましいと見えて時々出かけている場所でもある。
歩道の植え込みの草むらからは、秋虫の鳴き声が聞こえていた。コロコロ‥。軽やかな歌声。秋の宵の始まりを感じる。文化祭、続いて体育祭が行われたばかりで、少年は少々疲れ気味だった。おまけに昨夜は総大将の誕生会と称して盛大な宴会が催され、寝不足も加わっていた。誕生会なんて、実質、祖父の飲み会の口実だ。結局、最後は無礼講になって、大騒ぎ。自分なんていなくてもいいのに。けれど、誕生会と称しているため中座もしにくい。夜の妖の自分には胆力があるが、朝になると途端に人の体力に戻る。
「‥はぁ‥。」
盛大な溜息を付く。本当はゆっくり寝たかったんだけどな。
総大将ともなれば、組の行事には参加しないといけない。それが単なる飲み会でもだ。
少年は白いショルダーバッグを背負い直した。肩がいつもより重く感じられるのは疲れている証拠だと思う。
再び目の前を蜻蛉が横切った。‥こんな風に蜻蛉が飛んでいて、虫が鳴いていて、空も秋で‥そんな時は何となくどこかへ出掛けたいな、と思う。
偶には、取り巻きの付いてこない静かなところ。総大将になってからは、護衛を付け、なるべく単独行動は慎むように言われている。
でもね‥ボクは十代なんだよ。心配してくれるのは嬉しいけど、独りになりたい時もある。それが普通だと思うんだけど。
本家では自室にいても、風呂に入っても、庭を散策しても必ず誰かがやってくる。ただ、ボクの事が好きで懐いていて、或いは心配してきてくれるんだろうけど、お風呂も一人で入りたい。以前、鴆くんが薬師として本家の連中に注意してくれたので、マシにはなったんだけど、ほとぼりが冷めてくると小妖怪たちは構ってもらいたいらしくて、やっぱり現れるようになった。
こんな時、強い結界の張られている薬鴆堂が羨ましくなる。なんせ、怪我人を抱えていたり、療治のための貴重な薬を保管していたりするから、薬鴆堂の扱いは、奴良組の中でも別格扱いだった。特に病弱な大陸渡りの鴆族の頭を頂く薬師一派の身辺警戒のために必要な措置でもある。
少年は薬鴆堂を思い出す。
****
隣の県に位置する薬鴆堂は、薬草の栽培も兼ねた山と深い森に包まれた静かなところだった。
鳥の囀り。林を渡る風。泉の溢れる水音。
バスを降り、薬鴆堂のある山へ向かって歩いていく。そして、右に折れて雑木林の中を抜ける。更に爪先上がりの坂をゆっくりと登っていくと、やがて表門でもある薬医門が見えてくる。訪れる患者たちのために開け放たれた門扉。横にある木戸は表門が閉じられる真夜中でも鍵を掛けられることはない。
こんにちは。遊びに来たよ。薬鴆堂は最近どう?
薬鴆堂の玄関の取次へ入ると、帳場にいる蛙妖怪の番頭が驚いたように自分を見る。
‥人の姿でいらしたので?朧車は?総大将でいらっしゃるのに御独りで?供無しで?
蒼褪めた蛙顔で狼狽えている姿が、何だか楽しくて、笑ってリクオは答える。
学校の帰りなんだ。だから人の姿のままだし、電車で来たよ。バスも乗ったよ。
‥連絡して下さいましたら、お迎えに参りましたのに。
申し訳なさそうに番頭が低頭する。
いいよ。急に思い立ってきただけだから。気にしないで。
少年は微笑んで答える。
そして、そわそわしながら、玄関の間に置かれた衝立越しに奥を覗いてみるが、肝心の薬師の男が現れる気配はなかった。だが奥で声が聞こえる。
ちゃんと薬呑めよ、とそう言っているようだ。
やがて奥から患者が現れる。枯れ木の様な姿をしており門弟の組員薬師に付き添われていた。
恐らく樹木の類の妖怪だろう。総大将であるリクオを知らないのか、人間のリクオを不思議そうに眺めながら通り過ぎて、土間で履物を探している。だがリクオには彼の履物を認識することが出来る。樹木の妖気を放っているあの草鞋だ。少年は立ち上がって左の下駄箱から出してやり、それを三和土に、そっと置いた。
妖怪の患者は、リクオを下働きの人間だと思ったのだろう。リクオの肩につかまりながら履物を履き、見送りの門弟と番頭に頭を下げている。帳場にいる番頭は、患者の奴良組総大将に対する態度に再び蒼褪めていた。
男はまだ現れない。
暫くすると患者を送り出した番頭が立ち上がり、リクオに奥の座敷へ、どうぞ。と言っている。蛙妖怪に丁重に案内されながら、庭を見渡せる外廊下を通って奥の座敷へと歩いていく。
座布団の用意された席に座を定め、出された茶の香りを楽しみ、落ち着いた書院造の部屋で庭を眺めながら、男の仕事がひと段落するのを待つ。
心に染み込む様な湧水の溢れる音色。その庭では訪れる小鳥達が囀り交わしている。本家とは違う静かで心休まる時間。
やがて、足音が近づいてくる。素足で板敷を少し擦るような足音だ。そして衣擦れの音も。
音は次第に大きくなり、やがて部屋の前で止まる。
「リクオ。待たせたな。」
薄色の小袖に薬師一派の紋様が抜かれた瑠璃のお仕着せ羽織を纏っている。
こんな風に仕事で忙しくてそっけない時に限って、実はボクに夢中だったりする。でも、そっけなくしたから、ボクも少し冷たくしてみよう。
‥おい、何を怒っているんだよ、リクオ。診療中だったんだから、仕方ねえだろ。
でも、ボクは知らんぷりして、庭を見ながらお茶を飲んでいる。背後では男が落ち着きない動きをしている気配が伝わってくる。
きっと、もうすぐしたら、言い出すだろうな‥。それしか、ボクに触れる理由なんてないからね。
「‥そうだ、リクオ。どこか具合の悪いところはないか?こないだの怪我とかよ。それと風邪も引いたろ。」
‥ほら来た。
「何を笑っているんだよ。‥これは仕事なんだぜ。お前は大事な奴良組の総大将だからな。」
仕方ないなあ‥鴆くん。怪我も風邪も何ともないんだけど。‥少し痛いとか言ってみようかな。
昨夜は総大将の誕生会が催されたが、鴆は急な往診の要請があったとのことで欠席となったのだった。
総大将の誕生会だというのに。
薬師一派は奴良組の幹部貸元だというのに。
****
思いに耽っていたその時、突然、ポケットの中の携帯電話が振動しながら鳴った。薬鴆堂の記憶を辿っていた少年を現実へ引き戻す。
‥鴉天狗かな?今夜は何も用はなかったはずだけど。
少年は、右手でポケットから携帯を取り出すと開いて右耳に当てた。
「‥もしもし?」
「‥おう、リクオか?悪かったな、昨日は。今、往診帰りだ。」
―鴆だった。男の少々疲れたような声がする。
「‥帰り?帰りって、今!?今、帰りなの!?」
まさか、あの病身で一晩中往診に出ていたのだろうか。
「ああ‥、そうだ。まあ、そう鳴るなよ。なかなか帰れる状態でなくてよ。」
‥そうだよ、ボク怒っている。
「本家の誕生会に出られなくて悪かったな。」
「‥ねぇ、往診は、弟子の組員の誰かに頼めなかったの!?」
「薬鴆堂の診療の方は頼んだけどよ。往診まで回す手は無くてな。」
男が懸命に言い訳している。
「あのな、今、まだ外にいる。」
途端、電話の向こうで男が咳き込んだのが分った。そして咳が収まると男が深呼吸したのが聞こえる。
「‥リクオ、帰りに薬鴆堂へ寄れねぇか。昨日は行ってやれなかったからよ。」
「‥鴆くん!」
声を荒げたリクオに男が言葉を重ねた。
「‥わかってる‥わかっているからよ。悪りぃと思っている。だから、今、寄り道して、人間の好きな『しょうとけえき』とか言う菓子を買ったぜ。白くてよ、苺とかいう紅い草の実の乗っている奴だ。それで機嫌を直せ。」
後は男の咳で何も聞こえなくなってしまった。
‥ボクがどうして怒っているのか、鴆くん、分っている?
鴆くんは自分が病弱なんだってこと分っている?
疲れた声出していて、今、やっと往診から帰ったばかりで、わざわざボクのためにケーキなんて買わなくていいんだよ。
早く薬鴆堂へ帰ってよ。そして、必ず薬を飲んで部屋で休んで。‥何よりも、鴆君自身が病人のようなものなんだから。
「‥鴆くん、これから、薬鴆堂へ寄るから。すぐ行くよ。」
「おう‥やっぱり、お前も『けぇき』とやらが大好物か。買ってきて良かったぜ。」
ああ‥駄目だ。直ぐに横になる様に言わないと。
早く行って、薬を煎じて飲ませ、着替えさせて休ませないと。でも、ボクの顔を見るまで、絶対休まないんだろうな。義侠心が強いのもいい加減にしないと‥。
「すぐ行くから、早く薬鴆堂へ帰ってボクを待っていて。帰ったら、何処にも行かないでよ。」
「‥お、おう。‥そんなに『けぇき』が楽しみとはな。」
少年は急いで携帯電話を閉じ、気が付けば、駅へ向かって駆け出していた。
あとがき
あまりイベント物は書かないんですが、十字屋きょうこさまのご提案がありましたので、リク誕に挑戦してみました‥♪
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