午睡
庭の西の端に茂る木立では野の小鳥たちの優しい囀りが聞こえていた。山の竹林の奥に位置する薬鴆堂の庭では、訪れる野鳥たちの種類が入れ替わりつつあった。ゆっくりとではあるが、この地の季節が移ろおうとしている。
薬鴆堂と一体となっている母屋の庭を望む縁側で、鳥の気配に足を止めた薬師の妖は、その囁き合うような穏やかな囀りに、暫しの間、耳を傾けていたが、ふと我に返ると、再び奥の座敷に続く外廊下を歩きだす。
そして、座敷の前まで来ると、障子が開け放たれたままの部屋の中を覗き込んだ。
「待たせたな、リクオ、襲名式のことだけどよ‥。」
だが、その科白は最後まで言い終わることはなかった。何故なら、薬師の妖は、座卓の上に突っ伏した状態で眠りこけている奴良組の若頭でもある少年を見つけたからだった。
「おい、リクオ。」
声を掛けられても、少年は、見事なまで眠りこけたままだ。
右手にシャープペンシルを持ち、広げられた問題集と筆記帳の上に頭を載せ、口を半分開けた状態で寝息を立てて眠り込んでいる。先程、番頭が出したらしい手元に置かれた菓子と茶には、全く手を付けた形跡はない。
「リクオ、こんな所で寝るんじゃねぇ。風邪ひくぞ。」
男の怒鳴り声に、一瞬、意識を取り戻したらしい少年の瞼が僅かばかり開く。
「‥うん、起きる。宿題やらないと‥。」
寝ぼけ眼の上、呂律の回らぬ口で言いつつ、右手にシャーペンを持ち直すが、睡魔には勝てないらしかった。再び、焦げ茶色の円らな瞳が瞼の下へ消える。
「‥おい。」
驚いた鴆が、リクオの傍へ急いで歩み寄った。
「こんなところじゃ、体が冷やしちまうぞ。リクオ。」
男は急いで自分の羽根紋様の羽織を脱ぐと屈み、少年の華奢な肩に掛けてやる。
少年は三日後には、本家での正式な三代目の襲名式が控えていた。京都での激しい戦いは、確かにリクオの体力を酷く消耗させていたらしかった。牛鬼による厳しい修行と羽衣狐との死闘で、妖としては大きな成長を遂げたと言えるのだが、本来の人の方のリクオは、まだ子供に近い。
「番頭!」
再び廊下へ出ると、大きな声で、男が薬鴆堂の雑事を取り仕切っている番頭を呼んだ。
「忙しいとこ、悪りぃが、ちっと手を貸してくれ!」
すると、ちょっと間をおいて、薬鴆堂のある表の方から、ぴたぴたという足音が座敷まで近づいてくる気配があった。
「何か御用でしょうか、鴆様。」
「リクオがよ‥。」
そう言いかけると部屋を覗き込んだ番頭が蛙顔を引き攣らせた。
「わ、若頭が倒れられたので?急いで本家へ連絡しないといけません。と、取り敢えず、診察の道具を持ってまいります。ちょっとお待ちを。」
蒼白の蛙顔のままで、ぎこちなく踵を返した番頭を、鴆が慌てて呼び止める。
「違げぇよ。リクオは眠っちまったんだ。どうも相当疲れてるみてぇでな。けど、今、少しでも休息させてやんねぇと本当に倒れるぜ。」
薬師でもある主の言葉を聞いた番頭は、安堵したらしく大きなため息を付いて胸を撫で下ろした。
「‥そ、そうでございましたか。眠っただけでいらっしゃる‥。私は、てっきり倒れられたのだとばかり。京都から直接リクオ様が此方へ寄られたときは、大変な御怪我を負っておられましたので。今、冷や汗が出ました。」
番頭は懐から豆手拭いを出すと額を拭った。
「‥確かにリクオが酷でぇ怪我負ったのは、本当だけどな。出来るだけの手当ては施したし、妖の姿のままだったから、治りが早くて、すぐ小康を得られたから、そっちは心配いらねぇ。‥けど、消耗が激しいのは何ともな。」
鴆は、少年の傍らに屈み込むと、その顔を覗き込む。少年は、すうすうと大きな寝息を立てていた。
「番頭、取り敢えず、奥の部屋に蒲団を敷いてやってくれ。」
「承知しました。」
そう返答した蛙妖怪が、大慌てで隣に続く襖を開けて奥の部屋へ急いだ。
鴆は、少年を掛けてやった薬鴆堂お仕着せの羽織で、身体が冷えぬように包み込んでやる。だが、手は風に当たっていた所為か、既に冷たくなってしまっていた。男は、その手の上から覆うように大きな掌で握ってやる。鳥妖怪の体温で少しは温まるかもしれない。
男は羽織に包まれて、ぐっすりと寝入っている少年を左腕で押しながら傾ける様に自分の右腕の上へ仰向けに倒した。そして、そのまま右腕で背中をしっかり支える。更に両膝の裏に左腕を差し入れて、上半身も下半身も完全に抱き込むと、慎重に膝を片方ずつ立てながら、均衡を取って立ち上がった。少年は目を覚ます気配はない。
「‥‥‥‥‥‥‥‥。」
抱き上げてみれば、少年の身体は京都の鞍馬山で修行を重ねていた時と比べて軽くなっていた。恐らく間違いあるまい。
羽衣狐との激しい戦いは、この少年の体力を根こそぎ奪う程のものだったのだ。妖の姿の時には、堪えていない様に見えたが、その反動は全て人の姿の時に現れるのかもしれない。
人間のリクオの今の証は虚に転じてしまっており、与えた薬方を見直さなくてはならない‥。
「‥三代目襲名か‥人間のリクオは、まだ毛も生えて揃っていねぇようなガキなのによ。」
リクオが三代目になることを望んでいたのは自分だった。だが、いざ襲名を控えてリクオの人の姿の幼さに戸惑う自分がいる。男は自分の頬を少年の額へ寄せた。確かに少年からは、まだ巣立ち前の雛鳥のような匂いがする。
守ってやらなくては‥。それは鳥妖怪としての本能だったのかもしれない。腹の所の温かい綿羽を膨らませて中に大切に抱きかかえ、決して冷たい雨や風で凍えぬように、或いは天敵に襲われぬ様に、‥守ってやりたい。翼を広げて、空から雛を狙う天敵に見つけられぬようにしなくては。
「鴆さま、蒲団の準備が出来ました。若頭をこちらに。」
奥の部屋から番頭の声がする。男が我に返る
「わかった。」
男が少年を抱えたまま向きを変えると、敏感に感じ取ったのか腕の中の少年が身じろぎした。
「‥鴆くん‥ボク、宿題しなきゃ。あと来週は模試があって‥。」
真面目な少年の言葉に男は呆れたように首を振った。
「‥リクオ、宿題は後ですればいい。今は少し眠れ。ちゃんと蒲団に運んでやるから、心配はいらねぇよ。」
「‥うん、ありがと。」
鳥妖の腕の中で安堵したような声が聞こえ、少年の眠たそうな目が再び閉じられる。くったりと少年の全身の力が抜けていくのがわかる。
少年を抱えたまま、番頭が用意した奥の部屋へ入った。ここなら、静かにゆっくり休めるだろう。慎重に両膝を折りながら敷布団の上へ、まず少年の下半身を先に横たえると後は、頭を支えて、下へぶつけたりせぬ様に、そっと枕の上へ載せてやる。
少年が一瞬だけ、もそりと動いたが目を覚ましはしない。
「これまた、若頭は、ぐっすり眠っておられますな。さぞかし、お疲れだったのでしょう。人間の学校など行かなくともよろしいのに。」
「‥まあな、けど、学校とやらが、此奴は好きらしくてよ。」
鴆が答える。
「しかし、良く見れば、若頭は、まだ子供ですね。噂に聞く、あの剛腕名高い百鬼率いる奴良組『若頭』とは思言えません、鴆さま。」
「‥確かにな。」
「本当に正式に、三代目を継いで総大将となられる方なのですね。」
「‥そうだとも。此奴は総大将に相応しい野郎だ。」
その時、表の薬鴆堂の取次で番頭を呼ぶ声がした。
「はい、只今参ります。少々お待ちを。」
主人と眠っているリクオに深々と一礼すると、蛙番頭は、そそくさと早歩きで廊下の向こうへ消えていった。
いつも慌ただしい番頭に少々閉口しながらも、あれはあれで有能なんだよな、と鴆は思った。そして寝床に横たわったまま、安心しきって眠るリクオを眺める。
穏やかで落ち着いた呼吸。
無防備に投げ出された手足と
どこか幼さを残す面立ち。
その姿には、全く隙の無い無頼漢の夜の妖若頭の気配は微塵も感じ取ることが出来なかった。
鴆は、上掛けを肩が出ぬように丁寧に掛け直してやり、更に幼子のように外側に投げ出されている両手を上掛けの下へ入れてやる。
「‥鴆くん?」
鴆の手が体に触れたためか、突然、目を開いた少年が焦点の定まらぬ瞳で、薬師の妖の方を薄ぼんやり見ながら、その名を口にした。
「リクオ、一刻ほどは寝ろ。後で起こしてやるから、心配するな。」
その言葉に、少年は声もなく頷くと、再び目を閉じ深い眠りへと落ちて行った。
庭の何処かで、一羽で啼く鳥の囀りが聞こえていた。それは、今年初めて聞く大陸からの渡り鳥の鳴き声だった。風のない日に、無事、この森の中の薬鴆堂の庭にたどり着いたのだろう。暖かな午後の光の中で、その囀りすら、午睡の寝言のようだと鴆は思った。
あとがき
最近、昼リクオ君が可愛くて、昼リクオ君の登場が多くなっているような気がします。
きっと鴆も、リクオは可愛いなあ、と思っているのではないかと。
BACK