夏休み
日差しは強く、目が眩みそうだった。真夏の昼は、うだるような暑さだ。鴆は大きく息を吐くと腰の竹筒を取り上げて口元まで持っていき、生温くなった水を飲んだ。体調が良かったため、今日は予定外の往診に出かけたが、こう暑くては、体力の方が持たないような気がする。今更ながら、助手を連れて行けばよかったと後悔する羽目に陥っていた。鴆は、懐から豆手拭いを取り出すと額の汗を拭う。でも薬鴆堂まで、あと少し。身体に負担が掛からぬよう、歩調を緩めながら歩き続ける。暫くすると、ようやく待ちかねた、なだらかな坂が始まり、辺りが鬱蒼とした森に包まれていく。見渡す限りの回りの樹木からは煩いほどの蝉しぐれが降ってくるようになった。森の中で涼しくなった風が、そよそよと吹き、大きな木陰が心地よい。一番気に入っている道だった。そして、緩やかに右に折れる曲がり角を過ぎると薬鴆堂の門が見えた。
「番頭、帰ったぞ。」
門を潜り、玄関の取次ぎまで辿り着く。だが、帳場にいるはずの蛙の番頭の姿はなかった。残念ながら、何処へ行ったのか、見当もつかない。しかし真面目な番頭のことだから、用がない限り席を外すことがないことを思うと、急な用で出かけたことは想像がついた。
「ちっ、番頭の野郎、どこへ行ったんだよ。」
午後の休診の予定は既に伝えてあるので、問題はないが、こんな暑い日ぐらい、出迎えてもらいものだと思う。脇に抱えていた、薬などの入った往診道具を上がり框に置くと、帯に挟んであった扇子を取り出し、パタパタと仰ぎながら、裏庭にある湧き水の枡へと急ぐ。
裏庭には、滾々と溢れ出る湧き水を溜める大きな枡が設けられており、さらに続く下段の枡に落とし、再び溜める二段構造になっている。
「全く、暑くて汗がベタついて、かなわねぇな。」
枡の縁に置いてある竹の柄杓で上の枡から水を掬うと、一気に喉へ流し込んだ。冷たい水が五臓六腑に行き渡り、まさに生き返る心地がする。
そして鳥妖は、枡の傍らの地面に置かれた大きな行水盥を覗き込む。既に水が張られていた。本当は、きゅっと心臓が締まるような冷たい湧き水で身体を流したいところだが、『心臓が締まるような』という表現を蛙の番頭が聞き咎め、身体に悪いと小言を言って、いつも日向水にしてしまうのだった。
「ま、いいか。」
鴆は早速、麻の単衣の着物を脱ぎ、身につけているものを全て取ってしまうと、少し遠い縁側へ放り投げる。
さらに下段の枡に立てかけてある手付き桶を取ろうと手を伸ばした。‥ふと手元を見ると、大きな西瓜が、下段の枡に丸々一個放り込まれていた。しかも、上段の水が落ちてくるところに、うまいこと押し込まれている。
「おっ、西瓜か、いいね、こりゃ。番頭の奴もよく気が付くな。」
触ってみると、長い時間、涌き水に漬けられていたいたらしく、かなり冷えている。
西瓜を見つけた鴆は気を取り直し、大きな行水盥の中に足から入って胡坐を組んで座り込むと、手付き桶で手元の水を掬い上げ、水を頭から掛ける。さらに髪と顔を漱ぎ、背中も流す。帰り道、暑さで、べとべとした肌から、汗が流されさっぱりとしてくる。
気持ちよさに夢中になり、せっせと行水していると、背後の縁側では、人が、ひたひたと歩いてやってくる気配があった。帳場にいなかった番頭は家の奥にいたらしい。
「番頭、悪い、着替え持ってきてくれや。あと、大きな手拭い。」
鴆が縁側へ振り返る。
‥だが、そこにいたのは、Tシャツとハーフパンツ姿の少年のリクオだった。
「‥鴆くん、お帰りなさい。悪いけど、上がらせてもらっているよ。」
全く前触れのなかった三代目の訪問に鴆は驚く。少年は恥ずかしそうに、微笑みながら縁側に立っていた。
「ど、どうした、高校は休みなのか。」
「うん、もう夏休みになったんだ。まあ、いろいろ予定はあるから学校は時々行く予定だけどね。」
鴆と目が合うと少年は照れたように視線を逸らした。
「もしかして、この西瓜、お前の土産か。」
男は枡の中の西瓜を指差した。
「・・うん。毛倡妓からの差し入れ。なかなか美味しい西瓜みたいだよ。それより、最近は体調はどうなの・・?今日は咳していないね。」
「・・まあまあだ。取りあえず、ここ最近は調子がいいな。」
少年の表情が、ほっとしたように和んだ。
三代目でもある少年の機嫌は良いようだ。一月ほど前に鴉天狗がやって来て、人間のリクオは高校に入学してからというもの、急に難しい年頃に入ったらしく、ここ最近、皆が対応に苦慮している、とぼやかれたのだが、そのような様子は微塵も感じられなかった。恐らく、鴉天狗が心配しすぎているのだろう。
「わざわざ土産をありがとよ。ところで、リクオ悪いが、番頭が着替えを用意しているはずだから、部屋んとこ、見てくんねぇか。」
「・・・うん。ちょっと待ってて。」
少年は、部屋に入る。
「・・・この乱れ箱に入っているのでいい?」
部屋の中から声がする。
「ああ・・それだ。いつもそこに置いてある。手拭いも入っているだろ。」
「うん。」
少年が乱れ箱を持って、再び縁側に現れた。
「わりぃ、ここまで持ってきてもらっていいか。」
「あ・・うん。」
少年は靴脱ぎ石に置いてある庭下駄を履くと、手拭いと着替え一式を持って、恐る恐る鴆の傍へやってくる。
「おう、ありがとよ、暑くて、水浴びしちまった。・・・ん、何、こわごわ近づいて来んだよ。気ぃ使う必要ないぜ。本家にいるときみたいに、気兼ねなくしてろよ。」
「うん。」
だが、やおら盥の中で立ち上がった鴆に、少年は慌てて目を伏せた。今までなかった過敏な反応に少し驚くが、鴆はそれを横目で見ながら、手拭いを受け取る。
「ここまで来るのに暑かっただろ。朧車は使わなかったのか。」
少年は首を振った。
「使うと、鴉天狗が付いてきちゃうから、いやなんだ。最近特に、供を付けるように煩くて仕方なくて。夜のリクオは、簡単に振り切れるんだけど、人間の僕には無理だから。」
そういえば、夜の薬鴆堂にやってくるリクオは、いつも一人だったことを思い出した。
「この頃、シマが拡大してきているから、妬む奴も増えて、快く思わない輩もいるだろうな。確かに人間のときは供は付けたほうがいい。鴉天狗の言っていることは一理あるぜ。」
「・・・・・・・・・・。」
手拭いで、身体を拭いていると、少年の、時々ちらちらと上目遣いで覗き見る視線を感じる。
「リクオ、もしかして、暑くてお前も水浴びしたかったのか・・悪かったな。日向水はオレが使っちまって。」
「ううん、別にいいよ。」
「今日は風呂は、早めに用意させるわ。温めの湯でいいな。」
「うん・・別に気を使わないでいいよ。」
鴆は機嫌を良くして、リクオに手を伸ばし、その頭を撫でてやる。
「背、少し高くなったな。夜のリクオの方に、いずれ追いつくかもな。」
「・・うん。そうだね。」
リクオは、にっこりと笑った。
「どうする、今夜は泊まっていくか。」
「うん。鴆くんが構わないならだけど。本家は、皆が賑やかすぎて、宿題が捗らなくて困るんだよね。小さい妖怪たちは、遊んでもらいたがるから、つい一緒に遊んじゃうし。だから宿題と学校の補習のテキストも持ってきたんだ。」
「かまわねぇよ。午後は休みだしな。・・その代わり、ちゃんと宿題しろよ。でないと本家の連中にいろいろ小言を言われるぞ。」
少年は、悪戯っぽく、くすりと笑った。
「鴆くんも、夜の僕に言って置いてよ。宿題しろって。夜の僕は全然勉強する気ないんで、昼の僕はかなり大変らしいってさ。出入りに命の燃やすのもいいけど、さすが留年したくないから。」
「そりゃ、アイツの事だから、留年万歳で、益々、出入りに熱中するな。」
目の前で、少年は困った表情で笑っている。
「・・まあ、夜のリクオは、奴良組を背負っているんだから、大目に見てやれよ。」
少年は、納得したように頷いた。
「お互い、得意とすることを頑張ればいい。それでいいんじゃないか。まあ、一応夜のリクオにも、言っておいた方がいいかのしれないが、言ってもあの野郎のことだから無駄だろうがな。それより、ここは暑いから、部屋に入れ。座敷で涼んでいるといい。あとで麦茶でも入れてやるから。」
少年は、頷くと素直に部屋へと戻っていった。
男は、着物を再び身に付け、身支度を整えると、草履を履き、裏庭を横切って玄関へ回った。上がり框に置いたままの道具一式を抱えて薬房の棚に片付けると、今度は台所へ回る。台所では、板間のところで麦茶の入っている薬缶を抱えた付喪神たちが、江戸切子の器に麦茶を入れようと右往左往していた。だが、上手く入れられないらしく、板間のあちこちに麦茶の水溜りを作っている。それを見た鴆は薬缶を取り上げ、自分で、器に麦茶を注ぐ。その様子を、傍らで付喪神たちが羨ましそうに眺めていたが、やがて気を取り直して木の丸盆を持ってきて、傍らに置く。鴆はその上に切子の器を二つ置き、丸盆を持って台所を後にした。付喪神たちに茶を持っていかせたいところだが、部屋に辿り着くまでに、ひっくり返してしまうのがオチだろう。森からは涼しい風が吹いており、家の中で風鈴が軽やかな音色を奏でていた。
涼しい裏庭に面した部屋に入ると、少年は座卓の上で宿題をこなしていた。
「おい、麦茶だ。喉が渇いただろう。」
少年は、問題集から顔を上げる。
「わりぃな、今、番頭がいなくてよ。残っている連中だけじゃ、お茶は出せないみたいでよ。」
「ううん、番頭さん、僕のために夕飯の買出しに言ってくる、って言って、出かけたんだ。僕のせいだから気にしないで。」
リクオは辞書を閉じると麦茶に手を伸ばした。
「・・ねぇ、鴆くん。僕はこれから、どうしたらいいと思う?」
突然の質問に、鴆は戸惑う。
「・・どうしたらっていうと、どういう意味だ。」
「これからのこと、進学とか、そういうこと。本家の皆は言う事がバラバラでちょっと戸惑っている。進学した方がいいていう奴と、奴良組のことに専念しろっていう奴とか、いろいろなんだ。おじいちゃんは自分で決めろって言うし。」
男は少年を見た。
「・・じゃあ、お前はどうしたいんだ。」
「・・う〜ん・・鴆くんは、医塾を出ているんだよね。」
「おう、そうだな。」
「おじいちゃんに、鴆はガラは悪いが、実は秀才だよって言われた。鴆一派でも、医塾を入って出られた奴は珍しいって言われたんだ。」
「・・・は?オレは別に秀才じゃねぇよ。しかし、ガラが悪いってのは、余分だぜ。」
「行ってよかった?」
リクオが鴆の表情を覗き見る。
「そうだな、オレの場合はそれでよかったと思っているな。病弱だし、体力もない。そういう立場で奴良組の役に立てているからな。」
「ふうん。」
少年は感心したような返事をした。
・・それだけじゃねぇよ。お前の身体に気を配り、怪我の手当てをして、薬を考えて、お前に尽くせて嬉しいと思っている・・。何より他の薬師には触らせたくねぇしな。
「・・じゃあ、頑張って大学行こうかな。」
「お前がそうしたいなら、そうすればいいと思うぜ。珍しいな、お前がオレに相談するなんてな。もしかして初めてじゃねぇのか。」
少年は、少し居住まいを正した。
「実はね・・あと少し、鴆くんに相談したいことがあるんだけど。」
鴆が麦茶を飲む手を止めた。
「・・どう説明していいかわからないんだけど、一年くらい前から、時々夜の記憶が欠ける様になったんだ。昼間に思い出そうと努力するんだけど、思い出せない。」
少年の表情は、いささか苦しそうだった。その様子に、鴆は一瞬、息が止まるような気がする。
・・・このことは、昼間のリクオに知らせるな。お前が抱えておけ。
年長に当たる鴆の判断で昼のリクオには、二人の関係が夜は別の形を取るようになったことは伝えていなかった。夜のリクオもその意見を尊重しているらしく、その手の記憶は独占しているらしい。
「・・・よ、夜は、リクオが時々深酒しているからな。そ、そのせいだろ。」
どもりながら答える男に、少年は首を振ると節目がちに俯いた。
「・・違う。お酒を飲んでない日でも、記憶がないことがある。」
「・・・・・・・・・・。」
鴆は、切子の器を置いた。
「・・・そして、いつも記憶の消失は、ここの薬鴆堂が関係しているような気がするんだけど。」
昼のリクオは、感覚の鋭敏な少年で、夜の大人のリクオが引き受けているために起こる不自然な記憶の欠落に気が付いているらしかった。
「・・鴆くん、何か知らないかな。・・本当に困っているんだ。自分が、夜に何をしているか、分からないなんて、とても不安になるよ。僕、もしかして、ここで悪いことしているのかな。鴆くんに酷く怒られて、それで、記憶が消えちゃうのかなって思って。」
男は、どう答えてよいか判断できなかった。夜のリクオは、既に大人だが、昼間のリクオは、まだ大人とはいえない年頃だった。
「・・ま、まあ、確かに勝手に高ぇ酒飲んで、俺に怒られてるな。あと、貴重な生薬触ったりとか・・。そ、それぐれぇだよ。」
「・・ごっ、ごめんなさい、勝手に高いお酒飲んで・・。ここの生薬も、高価なんだよね。」
少年は消え入りそうな声を出した。自分の言ったこと真に受ける多感で利発な高校生のリクオの姿に胸が痛くなる。
「い、いや、別に構わないんだが、オレが酒で酔っぱらっているから、ちょっと怖い怒り方になっているだけだ。それでだろ。これから言い方には気をつけるようにする。派手に酔っちまうとわかんねぇ野郎になっちまって、悪かったな。」
鴆がリクオの背中を、どん、と叩いた。
「まあ、気にすんな。何も気にするようなことはしてないはずだぜ。」
少年は、弱々しく微笑んだ。
****
「・・しかし、高校ってのは、結構、宿題があるんだな。」
「・・うん。」
リクオが脱力したように座卓の上に突っ伏した。
「これを昼の間に、全てこなす僕の身になってほしいよね・・。他にも生徒会とかあるし、ほんと大変なんだから。」
嘆くリクオの傍らで、鴆は宿題の『英文法問題集』とやらの冊子を手にとって見る。一通り眺め回すと、今度は、頁をぱらぱらと捲った。
「・・オレには何が何だか、わかんねぇな。」
独り言のように言う。
その時、捲っていた頁の間から、ひらりと紙らしきものが落ちた。見れば薄紅色の長方形の封筒だった。
「・・おい、リクオ。こんなところに文が挟まっているぞ。」
鴆が封筒を拾い、それをリクオに指し示す。その様子に慌てたリクオが鴆の手から封筒を取り上げた。
「・・・どうしたんだ、慌てて。そんなに大事な文なのか。」
リクオが目を逸らした。
「・・別に違うけど、僕がもらった手紙だから・・。なんとなく見られたくなくてさ。」
「学校からの通達の文か。」
「・・違うよ、僕、生徒会やっているんだけど、その生徒会で一緒の1年生の女子から貰ったんだ。」
そして、座卓の片隅に置いた。
「女からの文か。」
「・・ぜ、鴆くんには関係ない手紙だから。」
「ただ今、戻りました!」
突然、中庭に面した内玄関で威勢のいい蛙の番頭の声がした。
「鴆さま!買い物に行ってきました!」
その元気な挨拶の声に釣られて、家の中の付喪神たちが現れる足音もする。リクオの表情も明るくなった。
「鴆くん、僕もちょっと見てくるね。僕のために夕飯の買出しに行ってくれたみたいだから。」
リクオは、問題集を閉じると席を立ち、いそいそと部屋を出て行った。
玄関の方で、皆が番頭を出迎える賑やかな声が聞こえて来る。何を買ってきたとか、何はなかったとか、報告しているらしい。
鴆は、それを耳で聞きながら、ちらりと座卓の片隅を見た。薄紅色の封筒が角の所に、ひっそりと置かれている。夜のリクオは、昼間の学校での生活を口にすることは非常に少なかった。生徒会の活動をしていることは聞いたことがあったが、女子生徒から手紙を貰ったことなど、ひと言も聞いていなかった。理由はわからない。言いたくないからか、それとも、こちらから聞かないからか・・・。そっと手を伸ばす。
封筒は花柄の和紙で出来たしゃれた封筒で、表には『奴良リクオくんへ』と少女らしい字で宛名が書かれている。達筆とはいえないが、愛らしい字だった。封筒は既に開けられた後もあり、封がされていない。リクオは、いつ手紙を読んだのだろう。・・夜のリクオは何も言っていなかった。手紙を読んだのは、一体いつなのだろう。最近なのか、それとも少し前なのか、もしかして、手紙のやり取りをしているのかもしれない。しているとしたら、どんなことを書いているのだろうか。想像が勝手に膨らんで行く。
考えすぎた男は、段々と堪えきれなくなり、手にしている封筒を、こっそりと開けてみる。開けると同じ色の便箋が折られて入っており、そこには手紙がしたためられているようだった。少々後ろめたさはあるのだが、手紙を開いてみたくて仕方がなかった。まだ、玄関でリクオが番頭とやり取りしている声が聞こえる。
・・・鴆は、息を潜めて、四つに折られた便箋を広げた。薄紅色の花の模様の便箋には、生徒会の活動の計画のこと、これからも頑張ってやっていきたいこと、三年生が引退してしまうことへの不安など、いたって、さり気ないことしか書いてなかったが、文章は長く多く、何かをリクオに伝えたい気持ちが込められていた。
「・・・勝手に見ないでよ、鴆くん!」
いつの間にか背後に立っていたリクオに、鴆は心臓が止まりそうになった。
「・・鴆くんも本家の鴉天狗と同じだね!いつも、どこへ行ったのかとか、何をしたのかとか、煩くて煩くて、うんざりしているのに、鴆くんまで、僕のことをいちいち詮索する!僕には、手紙一つさえプライバシーがないんだ!」
「・・・わ、悪かった。つい、見てしまって・・。」
「・・もういい!」
リクオは、鴆の手から手紙を取り返すと、ポケットに捻じ込んだ。
気まずい雰囲気が流れる。鴉天狗がリクオへの対応が急に難しくなったと、ぼやいていたことが今なら理解できる。もちろん、手紙を見たことは悪かったが、以前なら、あれほど怒ったりしなかっただろう。
夜のリクオが、隠し事をせず、はっきり自分の考えをいう傾向があるからといって、対応を同じにしてはいけないのだろう。いや・・手紙のことは聞いていない。夜のリクオも言っていない。何故、言わないのだろう。
「わ、悪かった・・。機嫌を直せよ。つい手が届くところにあったもんだから。」
「・・奴良組の皆で、僕のことを、いちいち観察しているんだよね!夜は自由にしているのに、昼は、皆が煩くてイヤだ!」
・・・そうではない、皆が気にしているのは、脆弱な人間になっている昼のリクオの身を案じているだけだ。夜のリクオの無理が、昼のリクオに与える影響も無視できない。薬師としても配慮すべき一面でもある。
「いや、悪かった、つい手が届いたものだから・・。もう高校生だもな。」
急に無口になっってしまった少年は、再び問題集を開くと夏の宿題を始める。外では煩く蝉が啼いていた。
「・・あのな、ちょっと聞きたいんだけどよ・・リクオ・・・余計なことかもしれねぇが・・あの手紙に返事書いたのか。」
ノートにシャーペンを走らせているリクオの手が止まった。
「・・・鴆くんには関係ないよね。どうして聞くの。」
少年は顔すら上げなかった。
「いや・・その、そうだな。」
男は少年の反撃に口ごもった。
「関係ないよね!鴆くんに!」
リクオの機嫌をさらに損ねたらしいことを悟った男は、口を閉じる。これ以上の詮索は、却って刺激するだけで、得策とは言えないだろう。鴆は追求を諦めざる得なかった。
・・・リクオが学校で出会う無邪気な少女たち。綺麗な髪飾りの付いた長い髪を靡かせて、リクオの横を微笑みながら通り過ぎる様を想像した。少女たちの柔らかな肌。膨らみ始めて間もない胸。他愛無おしゃべりをする薄紅色の唇。細く長い華奢な脚。どれも自分は持つことは出来ず、大切なリクオに与えてやることも出来ない。何故か胸は痛みで疼く。
「・・リクオ、持ってきた西瓜が冷えているから、食うか。」
少年が、顔を上げた。
「・・そうだね。」
西瓜の話題に切り替えて、少年の気が紛れたらしいことに気が付き、鴆は、ほっとする。
「番頭さん達にも食べて欲しくて持ってきたんだ。」
「わかった、ちょっと用意してもらうな。」
少年は、頷いて立ち上がると、裏庭へ降り、庭下駄を引きずりながら、湧き水の枡のところまで歩いていく。漬かっている冷えた西瓜を枡の水から取り出すと、重そうに抱えて戻って来た。
「はい、これ。」
男はそれを受け取ると、襖を開けて部屋を出て行った。足音が遠のいていく。
男が去ると、部屋の中は静かになった。湧き水の滾々と溢れる心地よい水音が聞こえる。その音に釣られて、少年は縁側を見た。縁側には、男が脱いで片付けなかった単衣の小袖が落ちていた。少年は立ち上がり、静かに縁側へ歩いていく。足元には薄物の男物の小袖。少年はそれを拾い上げて、抱きしめる。
抱きしめた麻布の薄物小袖からは、鳥妖怪の汗臭い匂いがした。生薬の匂いがそれに混じって、いつもの薬鴆堂の香りがする。朝、煮詰めていたという紫雲膏の匂いだろうか。紫根と胡麻油の匂いかもしれない。少年は、さっき頭を撫でてくれた鴆の掌の感覚を思い出す。そして麦茶の入ったグラスを持っていた指の動き・・。一瞬自分を見る精悍な瞳。ぶっきらぼうな癖に、時々難しいことを、さらりと言ってのける賢さ。次第に身体の芯が熱くなっていくのがわかる。
****
台所では、西瓜を受け取った蛙の番頭が悪戦苦闘して切り分けていた、包丁を入れるのに、ぴょんと上へ飛び上がらなければいけなかった。鴆は自分で切り分けた方が、明らかに早いと思ったのだが、番頭が自分のいる昼間に訪れた三代目の世話をしたかったらしく、西瓜を切るのだと張り切っていたため、言うことができなかった。番頭は大きな包丁を手に、上へ飛び、斜めへ飛び、横へとび、懸命に西瓜を切り分ける。
「はい!親分!切り分けました!三代目にお出ししててください。それに、今夜は皆で美味しい晩飯を用意しますので楽しみにしていてくださいね。」
台所の板間で胸を張る番頭や付喪神たちが嬉しそうだった。見れば、不均等に切られた西瓜が少々痛々しい。
鴆は皿に切り分けられた西瓜を載せると、さらに欅の丸盆にのせて部屋へと戻っていく。廊下を通り奥の座敷の前に辿り着いた。
「おい、リクオ、西瓜だぞ。一緒に食おう」
男の声に縁側に座っていた少年の後ろ姿は、飛び上がらんばかりに驚いていた。
男から見える少年の膝には、水浴びのときに脱ぎ捨てた小袖が載っている。
「わりぃ、脱ぎぱなしで。片付けるぜ。」
だが予想外のリクオの姿に当惑する男の足元に、切られた西瓜が皿から滑り落ち、そのまま次々に雪崩れ落ちた。縁側に潰れた西瓜の赤い果汁が広がる。
優しく大人しい人間のリクオ。入学した高校でも勉学と生徒会活動に余念がないと聞いた。
争いごとを嫌い、学校ではクラスでも慕われていると、一緒に入学を果たしたつららが自慢する三代目。本家では、小妖怪たちにも懐かれており、いつも誰かが傍にいる。
だが、目の前の少年は、左手に鳥妖怪の麻の小袖を握り締め、右手で自身の手淫に興じていたのだった。
自分を怯えた様に見返したその瞳には、何故か混乱と苦悶の表情が浮かび、皆が言う、優等生のリクオの姿は存在していなかった。
鴆は、ただ、呆然と立ち尽くす。子ども扱いしていた人間のリクオは、大人への階段を上り始め、いつしか湧き起こるようになった身体の欲望を持て余し、人知れず苦しんでいたのだ。今は、掛けていい言葉も、すべき行動も全くわからなかった。自分が夜のリクオを、愛しんで抱くことによって、昼のリクオにも強い影響が出ていたことは歪めない。知らないのは、残酷なことに人間のリクオ本人だけだった・・。
外では蝉時雨が降り注ぎ、ぎやまんの風鈴の軽やかな音色が聞こえていた。そして涼しい日陰の縁側で、二人は言葉もなく、ただ見詰め合っているしかなかった。
あとがき
今回は昼のリクオくんです・・(汗)
BACK