文化祭
男は少年から言われた通りに、紙でできた小さな札を機械の隙間へ入れた。すると黒い金属の横木が前へ、ぱたんと開く。・・男は漸く『駅』から、外に出られたらしいことを理解した。朧車しか殆ど使ったことがなく、電車は、数えるほどしか乗ったことはない。前は、一体いつだったのか、考えても、よく思い出せなかった。改札を無事離れると、少年に教えられたとおりに右へと曲がり、駅階段を下りて行く。藤色の着物に紺の羽織を襲衣に纏っている男を、通りすがる人々が振り返る。どこか可笑しなところがるのかと思い、自分の身なりを点検してみるが、袷は深く、羽織には、きちんと袖を通している。どこも可笑しなところはないはずだった。それに今日は足袋も履き、素足ではない。草履も新しいものを下ろしてきた。
男は気を取り直すと、独り階段を降り、道路に沿った並木道の歩道を歩いていく。日曜だというのに、制服を着た中学生と親らしき大人の組み合わせは、自分が向かおうとしている『高校』へ行こうとしているのかもしれない。並んで楽しそうに話をしながら歩いていく学生らしき少年たちも同じ『高校』へと行くのかもしれない。
通りは大きな銀杏の樹の並木通りになっている。生い茂る木々の葉が歩道に影を落としていた。ゆっくりと歩く男を自転車が追い越して行く。確か、ここを真っ直ぐに行きさえすれば辿り着くはずだった。右に見える団地とやらを眺めながら、人間の住まいの不思議さを感じる。まるで箱が積み重なっているようだと思う。広い本家で育ったリクオには住めないだろうな、と考えながら通り過ぎる。そして交差点に在る大型食料品屋の前の、照明が緑に変わったら渡るように少年から聞いた横断歩道を渡り、食事処らしき店の前、さらに『公園』とかいう庭のような場所の前を通ると『校門』といわれる表門の前に辿り着いた。
リクオが通うという『高校』という指南所の表門には派手な絵の描かれた看板が掲げられていた。
「・・鴆くん!」
校門に入ったところのすぐ内側に少年が立っていた。
「・・ほんとに来てくれたんだ。冗談かと思っていたよ。さっきメールが来て、びっくりして来てみたら、ほんとに鴆くんがいるんだから!」
少年が微笑むと
「いや・・おめぇが来て欲しいって言ってたからよ。行ってやらねぇと思ってよ。」
と男が頭を掻いた。
「・・でも、結局、来ないって思っていたから。中学の時だって来てくれなかったしね。」
少年は嬉しそうだった。
「・・いや、中学は若菜様やぬらりひょん様が行っただろうが。・・オレは行っても仕方ねぇだろうしよ。」
男は更に頭を掻いていた。
「あのね、ボクのクラス、カフェやっているんだよ。案内するから。少年は男の腕を掴むと昇降口へ向かう大きな外階段を目指して歩き出した。
「・・お、玄関はこっちか。二階に玄関があるのか、この指南所は。」
鴆は少年に腕を引かれながら一緒に外階段を上がっていく。階段を上りきるとそこには、下駄箱の並ぶ昇降口となっていた。既に多くの保護者や中学生、高校生らしき人々で賑わっている。下駄箱には出し物の宣伝のポスターがびっしりと貼られ、看板もどきを持った生徒たちが練り歩いている。
「・・なんか、祭りみてえに騒がしいところだな。」
困ったような表情で見回している男がいる。
「文化祭だもの、騒がしいのは当たり前だよ。言わば学校のお祭りだからね。」
可笑しそうに少年が笑った。
「ところで、鴆くん、スリッパ持ってきた?」
「す・・?すり?なんだ、それは。」
「えっと・・学校で履く草履みたいなもんだけど。大丈夫、来客用のスリッパあるから、借りてきてあげるね。ここで待っていて。」
「お、おい。」
置いていかれることに戸惑うが男が見たときには、少年の姿は賑わう殺到の中へ消えてしまっていた。
「・・待ってりゃ、いいのかよ。」
鴆の傍らをを通り過ぎていく人々は着物姿の男をじろじろ見ながら通っていく。どこも変なところはないはずなのに、どうして見るのか分からなかった。今日は、きちんと着付けており、問題はないはずだ。理由が分からない。懐に手を入れ豆手拭いを取り出すと額の汗を拭った。
「ねぇ・・お茶の先生かしら?」
少女が母親らしき人物と囁いている。
「書道の先生じゃないの。」
・・・どっちでもねぇよ!
叫びたくなるが、止めておこう・・。リクオが困るといけない。以前、小柄なリクオに思いっきりぶつかった野郎がいて、知らん振りして去ろうとしたので、詫びぐらい言え!と怒鳴りつけたことがある。そうしたら何故か土下座され、反対にリクオが謝っていたことがあった。人間の世界は、わけわかんねぇ・・。
「・・鴆くん!スリッパ。」
少年が履物を持って人混みから現れた。
「はい、履いて。脱いだ草履はボクの下駄箱に入れておくね。」
置かれたスリッパとかやらを見ると、確かに草履のようでもあるが、ちょっと違うと思う。
少年は、男の脱いだ草履を持つと下駄箱のポスターの端をぺりっと剥がし、その下に現れた棚らしきところに草履をしまった。そして再びポスターを広げて貼り付ける。
「・・鴆くん、今日は、いつもと少し違う装いなんだね。」
ちらっと男の方を見ると、リクオは少し頬を赤らめた。
「・・まあ、偶には、こういうのもいいだろうが。」
「うん、お茶か書道の先生みたいだよね。ボク、きっと鴆くんの教え子だと思われると思うよ。」
・・・さっき、誰かが似たようなこと言ってたぞ。
「応、じゃ、ここでは、オメーの書の師匠の振りしたらいいのか。」
「・・いや、別にしなくていいけどさ。あ、でも、それもいいかもね。」
少年は、再び男の腕を掴むと昇降口前の階段を上りだした。生徒たちや保護者らしき人々が上り下りしている。
「随分、混んでいるな。」
「うん、歴史の古い学校だから、地域の人も沢山来るんだよ。だから、クラスによっては出し物に凝っているんだ。」
すると、上から階段降りてきた生徒らしき少女が男にチラシを渡した。
「二階で劇をしていますので見に来てください。」
にっこりと笑って、さらに階段を降りて行く。
「・・リクオ、なんだ、これ。」
チラシを不思議そうに、男が眺める。
「クラスの出し物の宣伝だよ。ボクも朝、配ったから。」
「奴良組の総大将なのに宣伝もしないといけないのか。大変だな。」
「学校で、総大将とか、そんなの全然関係ないよ。」
少年は、くすっと笑った。二人は三階に辿り着く。
「こっち、鴆くん。」
階段を上りきった場所から、男の腕を掴んだまま廊下を左へと歩いていく。
「・・おい!奴良!当番の時間だぞ!」
向こうに見える教室の出入り口から生徒らしき少年が声を張り上げた。
「ごめん!お客さんが来たんで迎えに行ってた!すぐ、交代するよ!」
混んでいる廊下を、どんどんリクオが進んで行く。男は引きずられるように付いていくしかなかった。
****
「鴆くん、オレンジジュースでいい?」
少年が盆の上からグラスを取ると男の前へ置いた。
「ごめんね。1時間は、このカフェのウェイターの当番。だから暫くは教室から出られないんだ。」
男は透明な硝子の器に入っている蜜柑の果汁を眺めた。
「・・おめぇ、こんなところで給仕させられているのか。・・信じられねぇ。指南所に何しに来てるんだ。」
苛立たし気に男の眉間に皺が寄る。
「・・あ、あのね、これはお祭りだから。鴆くん、そんな怖い顔しないでよ。」
「おふざけでも、こんなことさせられるなんてよ。・・薬鴆堂でだって、こんなことさせたことねぇぞ。この指南所は、学問そっちのけで弟子に給仕させてんのか。」
「・・・・・・・・・・。」
リクオは段々と嫌な予感がしてきていた。鴆は人間社会の常識とは無縁の世界に住んでいる。つららや青とは違う。
鴆は妖怪の薬師としては腕はいいが、変なところで融通が利かない。
「おめぇは出入りや抗争で命張っているから、せめて薬鴆堂では傷を癒してもらったり、休んで寛いでもらいてぇって思っているのによ。給仕させるなんてオレにはありえねぇな。」
「あ・・。」
少年は思い起こした。リクオが薬鴆堂を訪れる宵。出される夕餉や酒。どれも男の心づくしの品々だったのだ。更に臥所に入れば、必ず最初に身体を診せなければならなかった。それが薬師面されているようで鬱陶しくて嫌だったのだが、それもきっと彼なりの気遣いだったのだ。
「おう、そうだ、気になっていたんだが、この間の傷どうなった。」
「・・大丈夫。もうなんともないよ。」
にこやかにリクオが答えた。
「でも、一応診せてみろ。腕もちゃんと動くか確かめるから。」
そういうと男は、やおら立ち上がる。
「・・ぜ、鴆くん、こ、ここでは無理だよ。今、お店しているんだから。ここカフェだよ。」
「何言ってんだ。ちっと診るだけだから直ぐ終わる。その割烹着とって、着てるもの捲れよ。」
リクオの身につけているカフェエプロンを指差した。
「カ、カフェでは診察は出来ないよ。鴆くん」
少年は後ずさる。・・やっぱり鴆くん、融通が利かない。ただの堅物妖怪だ。
「・・おめぇ、調子悪いんだろ!だから診せたくないんだな!いつも誤魔化そうとしやがって!」
リクオは、鴆の声に周りの視線が集まるのを感じた。
・・ごめんなさい、鴆くん、確かに今まで沢山の怪我を誤魔化そうとしてきました。でも、今ここで、その報いを受けるなんて酷いです。
「・・わかった。後で薬鴆堂へ寄れ。診てやるから。」
何故か大人しく再び席に着いた男。
リクオが呆然とそれを見ていた。絶対、大騒ぎになることを仕出かされると思っていたのに・・・。
「オレのことで、面倒になると困るんだろ。人間の世界はわけ分かんねぇ・・。だから、おめぇが無理って言うなら、無理なんだろうな。」
男がグラスを持つとオレンジジュースを口元まで運び、ごくりと一口飲んだ。
「奴良くん、何かあったの?大きな声が聞こえたけど。」
教室の片隅のカーテンが開き、クラスメートの少女が顔を覗かせてリクオを呼んだ。少年は急いで歩み寄る。
「・・ううん、大丈夫。ボクの知り合いが来たの。」
「奴良くんの知り合い?珍しいね」
「うん。おじいちゃんの代から親しく付き合っている一族の人で家族同然なんだ。お医者さんになったから、今はボクの主治医をしてくれてる。」
少女が身を乗り出して教室の中を見渡す。視線が薬師の男を捕らえた。
「・・あの着物着ている人ね。」
「うん。・・で、この間、ボク怪我してさ、そのこと心配しているみたい。」
「・・えっ、奴良くん、怪我したんだ。」
カーテンの内側に居る店員役の生徒たちが、一瞬ざわめいた。
「うん、家の方でね。ざっくり刃物で切っちゃってさ。もう大丈夫だけど。」
「・・ふうん。いい人だね。心配して、わざわざ、ここまで来るなんて。」
少女はそういうと、カーテンを閉めて引っ込んでしまった。
見ればカフェで寛ぐ人々は楽しげに再び談笑を始めていた。少年は男の方を振り返った。男は、こっちを見ていたらしい。慌てて視線を逸らした。
少年は男のテーブルの傍に近寄ると、少し身を屈めた。
「・・あのね、鴆くん。待ってもらっても構わないようだったら、ボクも今日一緒に薬鴆堂へ帰っていいかな。」
「ああ・・。茶でも飲んで、その後、本家に帰るか。」
少年は首を振る。
「ううん、明日はお休みだから、今夜は薬鴆堂へ泊まりたいんだけど。」
男がグラスを取り落としそうになった。
「・・さ、最近、出入りで忙しかったから久しぶりだな。」
「うん。鴆くんと、ゆっくり過ごすつもりだよ。朝までね。」
・・今夜は、恐らく鴆に念入りに身体を診られることだろう。傷の回復を確認し、そして、その後は・・。
もしかしたら自分は道から外れた恋をしているかもしれないと思う。
けれど自分を気遣う男の手は、きっと優しい。身体の芯が熱くなりそうだった。
ちょっと閑話休題です。鴆は、やっぱり面倒見のいい兄的要素を感じます。
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