明け方
外が白み始めていた。
「う‥。」
思わず、リクオから小さな声が漏れた。その時、リクオは柔らかく清潔な寝床で、背中に薬師の妖の温もりを感じながら浅くなりつつある眠りの中にいた。
目を覚ましたリクオは、自分の手を見る。そして、その手で自身の肩に触れる。身体全体から、妖力が抜けていくのが手に取るようにわかった。
豪胆無比で力に満ち、周りを圧倒するような威圧感を漂わせる妖としての自分が、夜明けとともに失われる変化が始まっている。
--朝の光と共に妖の自分から人間の自分へ
人間の姿から妖へと変化を遂げるときは、不思議なことに今のような違和感は伴わない。体と心に満ちてくる力強さは、自分を奮い立たせることはあっても、受け入れ難い葛藤が生じることはなかった。
「どうした、リクオ。」
傍らで、同じように眠りについていたはずの薬師の男が敏感に反応した。すぐさま、大慌てで痩せた上半身を起こす。
「‥どこか、痛むのか。」
妖の男の掌が、気遣うようにリクオの肩に触れた。
「この間の疵か。無事、平癒したと思ったんだが。」
男の手が自分で処置した傷跡を診ようと、急いでリクオの白い寝間着の襟の合わせを緩めたが、その手を押し留めてリクオが首を振った。男のリクオを見下ろす萌黄色の瞳は、不測の事態を憂慮する色を湛えている。
「疵が痛むんじゃねぇんだな。」
リクオが同意するように頷いた。
「‥痛くなんか‥ただ‥身体が人間に戻っ‥。」
そう答えるリクオの声色にも、目に見える変化が伴っている。
「‥もしかして変化が苦しいのか。」
三代目の専属の薬師としての本能が、男の手を、枕元の小さな薬箱へと伸ばさせる。リクオは再び首を振った。変化に身体の苦痛など伴なったことなど無い。
薬師の妖が気遣わしげに、今度はリクオの長い髪に触れた。その髪も、急速に短く茶色味の強い黒髪へと変わっていく。短くふわりとした人の姿の時の髪へと。
「どこか苦しいなら、我慢せずに言え。オレには気を使う必要なねぇぞ。」
リクオは、心配性の本家の妖怪たちに無用の心配をさせぬよう、深い手疵を負っても平静を装うことも多かった。特にリクオの幼い頃から身の回りを世話してきた雪女や首無、青、黒は、三代目でもあるリクオの事を大切の思うあまり、大袈裟になってしまう事も多いからだった。
「大丈夫‥。ちょっと、戸惑っただけだから。」
指の先まで、髪の毛一本一本に至るまで満ち溢れていた妖力が消えてしまう瞬間は、時には言葉には表せない混乱が伴う。これを何といって表現すればいいのかは分らなかった。上手く譬えられる言葉も見つかりそうにない。最近では、ある程度コントロール出来る様になったし、昼の姿の時でも、必要に応じて短い時間なら、夜の自分とも交代することが出来る。けれど、それでも完璧な交代は行えなかった。
‥目の前のこの男は、妖の鴆は、人へと戻っていく自分をどう感じているのだろうか。
そう思ったリクオは、褥の中から薬師の妖を見上げた。
薬師の男は、黙ってリクオを見下ろしている。武骨な手は、リクオの肩に置かれたままだ。空いている方の手は、三代目の万が一の時のために、枕元の薬箱を引き寄せている。
「大丈夫だから、鴆くん。」
‥昨夜は、大妖のリクオの肩の強健な筋肉の形をなぞる様に彷徨っていた鴆の大きな掌。その掌は、広く厚みのある妖の時の自分の胸を、そして硬く鍛えられた背中の筋肉の形を撫で上げて行った。更に鴆の温かく濡れた唇が、その後を追う。その唇が逞しい上腕も辿っていく。だが、奴良組傘下きって俊英揃いの薬師一派の頭領を引き付けてやまない並外れた肉体も、今は存在していない。薬師の妖に溜息を齎すような、体の中心でそそり立つ太く力強い雄も持たない。そして、巨大な妖力も。
人へと戻れば、十代の一男子としては不完全な体躯しか持ていなかった。真面目だけれど、生徒会も勉強も頑張ってはいるけれど、容姿も小柄だし、あんまりぱっとしないと思う。人の姿になった少年は、妖の自分に少しばかり複雑な感情を抱く。‥夜の姿も自分の一部分にすぎないというのに。
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‥三代目専属の薬師として、必ず用心しなければいけないのは、夜の妖の姿から、人の姿へ戻るときだった。負った傷が小康を得ていないとき、或いは、熱などを伴う病を押して出入りなどへ出掛けた時は、妖の状態の時は問題が起きなくとも、人へ戻った途端、その反動で高熱を出したり、症状が急速に悪くなったりすることがある。施す薬方は、それを考慮しなくてはいけない。怪我の手当ても同様だ。薬師の男は慎重に三代目の様子を観察していた。それにしても、この三代目は良くできた野郎だと思う。リクオは奴良組の妖怪たちの中で自分が果たすべき役割というものを十分心得ている。妖の時も、人の時も。だから、いつも心配なんだ。せめてオレが気をつけてやらねぇとな。
薬師の妖は、変化の終わったリクオを眺める。先に成人する妖の血の所為か、人間の方は成長が遅く心配したこともあったが、漸く第二次性徴も終え、人としても元服したといってもいいと思う。人間の姿の時は、焦げ茶色掛かった髪をして、円らな瞳をしている。男のオレが言うのもなんだが、容貌も、なかなか優れているし、愛らしい奴だと思う。抱きしめたくなるような小柄な身体付きをしていて眼鏡の奥で恥ずかしそうに笑い、弱い人の姿の時でも、小妖怪たちにすら、心遣いを見せて親切だ。『学校』という指南所では、『せいとかい』とかいう集まりで仕事をしたりしているらしい。その上、出入りを控えた日でも、沢山の『宿題』を熟して学問を積んでいると聞く。『学校』とやらでも、コイツに惚れる女どもが多いような気がする。
‥そんな純真無垢なリクオを別の意味で大人の男にしてしまったのは、義兄弟でもあり、一貸元の頭領でもある己だった。穢れを知らない純白の雪の上に、己の足跡だけが残っている‥。そんな気持ちだ。
****
「鴆くん、大丈夫だから。そんな心配そうに見ないでよ。」
少年は困ったように褥から微笑んだ。
「無事、人に戻れたみてぇだな。どこも何ともないか。」
「‥うん、大丈夫。いつものことだから。」
薬師の妖は、少年の頭を撫でる。少年は再び戸惑ったように微笑んだ。
「‥鴆くんて、人間に戻ると、いきなりボクの事を子ども扱いだよね。」
「‥ん?そうか?そんなことはないつもりだけどな。」
‥子ども扱いしているよ。妖の姿の時は、そんな風に頭を撫でたりしないくせにさ。
「‥おめぇの体を守るのはオレの仕事だから、いつもと違うところがあれば、小さなことでもオレに言えよな。」
「‥うん、分っているから。もう‥いい加減、煩いよ。」
「‥それにしても、二人だけで過ごしたのは久しぶりだったな。」
妖の男が静かに笑った。それに釣られて少年も微笑む。
「うん、試験もあったし、出入りもあったからね。薬鴆堂へ来るのは久しぶりだよ。」
と、何かを思い出すかのように部屋の中を見回す。男が少年の方へ背を屈め、その耳元へ唇を寄せた。
「‥昨夜は楽しめたみたいだな。お前の、あんな姿みるのは珍しいぜ。」
とたん、少年の頬が紅く染まった。
「‥そ、その話は止めようよ。」
「別に気にすることじゃねぇだろ。ここにはオレしかいねえし。それに子ども扱いはいやだって、たった今言ったじゃねぇか。」
「言ったけど‥。そういう意味じゃなくて‥。」
照れて、そっぽを向く少年に、男が枕元の盆の上から、薬湯の入った湯呑みを取った。
「あとで新しく薬を煎じてやるから、取り敢えず、これを飲んでおけ。」
と、差し出された湯呑みを、リクオは断る様に首を振ると反対に鴆に押し付けた。
「‥鴆くんが先。それに体調はどう?今は咳がないみたいだけど、取り敢えず、大丈夫だと思っていいのかな。」
「‥まあな。最近、少し暖かくなってきたからよ。」
‥この薬師の男は、体調が悪くなっていても正直に言うことはないだろうなと、少年は思った。そういう男だと心得ている。しかし、聞いても無駄だと分っていても、やはり聞いてしまうのが情というものだ。目の前では、少年の真剣な眼差しを受け流し切れない男が、渋々湯呑みの薬湯を口にしていた。
「あのさ、鴆くん、分っていると思うけど、ボクが総大将で、鴆くんは貸元だからね。」
「‥どうしたんだ、急に。そんな事は、元々百も承知だぜ。」
言われるのも当たり前だった。公の場では、鴆は一貸元としての立場を、きちんと弁えている。義兄弟という立場にあっても、専属の薬師と言う立場になっても、本家に入れば、リクオの前に立つことはない。いないと思って周りを見ると、少し後ろに控えていることが多い。小さな頃から一緒に遊んだ仲で、今は幹部なのだから、気にする必要は無いと思うのだが、総大将と一貸元という『けじめ』は付けるつもりらしい。
「だから、ここでもボクは、総大将だからね。」
突然、懸命な主張を始めた少年に、妖の男が首を傾げる。
「‥どうしたんだ、急に。」
リクオの唐突な発言に、鳥妖怪はポカンとするしかなかった。
「鴆くんってさ、二人きりになると、いつもと違うような気がするんだよね。」
「‥違うって、どういう意味だ。別に違わねえと思うけどな。」
「ううん、本家にいるときと違うよ!絶対!」
「‥おい、リクオ、何、むきになってんだ。」
今度は男が驚いている。
「本家にいるときは、ボクの後ろに控えていて、ボクが先に発言したりしているでしょ。ボクの指示にも従うし。」
「そりゃ、お前は総大将。たとえ義兄弟でも、オレは貸元だ。幹部といえども、貸元は総大将を支えて、なんぼ、だからな。」
「‥じゃあ、夜は、どうして鴆くんが主導権を握っているの?総大将はボクでしょ。」
「は?」
突然の少年の発言に、訳が分からないといった面持ちで男が少年の顔を覗き込んだ。
「主導権握ってなんかねぇぞ。それは誤解だろ。」
「握っているよ!ボクが総大将なのに!」
「‥いや、その言い方は語弊があるぞ。オレは、お前が望むようにしてやっている筈だぜ。なら、お前が主導権取ってるじゃねぇか。それに昨夜だって、少しばかり途中で手を放したら、止めるなって指示したのは、お前だろ。」
「‥し、指示してないよ!そんな事!」
何故か焦りまくった声が少年の口から洩れる。
「いや、指示したぞ。ちっと、懐の豆手拭いを取ろうと思って手を放したら、もう少しなのに酷ぇ、って怒ったじゃねぇか。」
「絶対、怒ってない!絶対!」
俄かに少年の声が大きくなった。
「分った、分った、おめぇは怒ってねぇよ。」
仕方なく少年に勝ちを譲った薬師は、困り果てたように笑った。
「今度も指揮よろしくな、総大将。」
薬師一派頭領からの、改めての挨拶に、少年の顔は耳まで真っ赤だった。最早、総大将の威厳は何処かへ去ってしまったようだ。
「それより、リクオ。まだ、夜が明けたばかりだ。今日は指南所は休みなんだろ。最近、試験やら出入りやらで、ぐっすり眠ってねえみてぇだし。」
少年が男を見た。
「こういう時ぐらい、ゆっくり眠ったほうがいいぜ。リクオ。」
「‥うん。」
男の言葉に、少年が素直に再び褥に横になる。
「じゃあ、もう少し眠ろうね、鴆くん。総大将はボクだから守ってあげる。鴆くん、こっちへ体を寄せて。」
少年が自分の小柄な胸を指さす。
「おう、了解、三代目。胸を借りるぜ。」
男は三代目を立てて、その胸に長身痩躯の体を寄せる。だが、どう考えても傍から見れば、胸を借りているのは少年のリクオにしか見えないと思った。
少年の規則正しい寝息が再び聞こえていた。その息遣いを聞きながら、薬師の男もまた、心地よい眠りへと落ちて行く。
二人だけで取る、久しぶりの朝餉の献立の事を考えながら。
あとがき
番外編として閑話休題代わりに。
大変な状況が続いていますので
ヘボ文ですが、少しでも和んでいただけましたら幸いです。
‥DVDのおまけCDに被っているネタがあるんですか?
DVDは購入していないです‥
買いたい‥!
でも主婦なので、自分にしか需要のないものを買っていいかわからない‥!
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