授業の終わりを告げる鐘が鳴った。小夜は、ミンに捕まらないように急いで教室を抜け出る。
外は、秋を告げる涼しい風が吹いていた。リセのあるベトナム北部の山間部は、気候の
穏やかなところではあるが、今日は晴れているせいか暑い。身体全体を覆う制服でもある
アオザイの背中にも汗が滲む。リセの中庭は、この残暑の中でも、多くの花々が色とりどり
美しく咲き誇っていた。
 ここの庭には、ベトナムとは思えない種類の花々が美しさを競い合っている。さながら、
フランス南部にある館の庭園のようだ。まさしく、深窓の令嬢たちの集う女学校の手入れの
行き届いた庭。小夜はその庭の中である人物を見つける。

---ハジ。

 庭師としてリセへの潜入に成功したハジは中庭の噴水の近くの花壇に新しい花の苗を植えて
いた。小夜は、その様子にちらりと目をやる。彼は、小夜に気がついているのかいないのか、
こちらを見る気配はない。小夜はリセの中庭に面した広い回廊をめぐるように通り、校舎の
鄙びた裏手へとたどり着く。そして、赤く錆びついた壊れた鉄の門を開けた。
 そこには、立派な校舎や学生寮とは違うや古ぼけた石造りの二階建ての建物があった。
先の戦争でも焼け残ったのだろう。おそらく、フランス植民地時代の建築物だ。そこは、
教員ではない学校の職員達の寮だった。草が生い茂り苔むした道を、少しばかり奥の
方まで歩くと、緑色の半ば腐り朽ちかけた木製の扉があった。その扉の前には、薄紅色の
小さな蘭が植えられた鉢が置いてある。その鉢の下に、汚れた紙切れの端が、ほんの少し
覗いていた。
 小夜は、首をめぐらし辺りを用心深く見回すと、急いでその紙切れを引き抜いた。適当に
二つに折られている。

「了解」

その紙には、丁寧な字でそれしかか書かれていなかった。
何が、了解なのだろうと思う。私は、デヴィッドたちが来週行われるリセのパーティを利用し、
聖堂の地下室を調べに来ることを知らせただけだ。私たちは、その時どうすればいいか相談
したかったのに、肝心なことは、何も書いていなかった。小夜は、パーティに出る気はない。
デヴィッドたちと地下室へ行くべきか、或いは、ファントムであるカール理事長を見張るべきか、
決めたかった。これでは、何も決まらなかったのと同じではないか。
 小夜は、落胆してため息をついた。


 そう、先週、ハノイへ校外学習のために出かけた。皆と戦争博物館へ入り、寒々しい館内を
歩いていく、うち次第に意識が遠のき、気がつけば、自分の目の前には、燃えさかる炎の中で
逃げまどう人々がいた。物陰から自分をうつろな目で見ている少女。熱と煙。耳をつんざく
爆音。照明弾の光の中に浮かび上がる貧しい村。地面を流れる血。目を覆いたくなるような
惨劇が何度も繰り返され、胸を掻きむしられる苦しみに、耐えきれず、博物館を飛び出して
いた。
 歩いても歩いても、すぐ耳元で人の断末魔の叫び声が聞こえて来る。夢遊病者のように走り
回り、歩き回り、目の前で繰り広げられる光景から逃げようと思った。意識を保つことさえ
困難な混乱に陥りながらも。
 そして、闇のような暗い路地の奥深くから、黄泉の国の亡霊のように現れ出たファントム。
決して言葉にすることも出来ぬような恨みと憎しみと深い悲しみのこもった低い声。

---けれど、私には、覚えのない知らない過去の出来事。

いや、きっと覚えていないこと自体も、罪なのだ。
眠りの彼方に置いてきて、忘れてしまったことさえも、悪しく罪深いことなのだ。
・・そう、覚えていなければ、その罪は贖うことすらも許されないほどに。

 その行く手を阻むファントムの前へ、突然、上空から割って入ったのは、ハジだった。
重いチェロケースの衝撃を受けて、土埃の舞う中、彼の少し癖のある黒髪が空中で乱れて
靡いた。
 ハジから左手に持っていた刀を手渡されたが、どうしていいかわからなかった。
ファントムの言っていることさえも、私には、まるで理解できないというのに。
ハジは、小夜が臨戦態勢にはいるまでの防衛のつもりだったらしかった。なかなか、刀を抜か
ない小夜に気を取られた瞬間、体勢を崩され、ファントムの圧倒的な反撃に跳ばされた。
そのまま、廃屋にぶつかったハジは、あっという間に崩れ落ちてくる瓦礫に埋もれてしまった。

「ハジ!」

古く朽ちかけた建物の上からは、廃材や様々な物が、がらがらと大きな音を立てながら
雪崩れて、落下してくる。崩落した瓦礫の中に、彼の姿は見えなくなってしまった。

--彼は、このファントムが誰であるかを知っているのだろうか。
  私の知らない過去の真実を知っているのだろうか。
  もしそうなら、彼は、私が背負いきれない何かを、代わりに背負っている・・・。

--そう、きっと。何かを。

私は、私を受け入れる。私の過去を。私の過去は、私のもの。私しか受け入れられない。

---でもそれは、一体、何なのだろう?


 どこかで、授業の始まりを知らせる鐘が鳴っている。小夜は、壊れかけた戸の前でぼんやりと
ハジの書いた文字を眺めていた。
「小夜。」
後ろで声がした。
「授業が始まりますよ。」
あっと思い、振り返ると庭師の姿でハジが立っていた。
小夜はハジの顔を見る。こめかみの辺りに、くすんだ色の大きな傷跡があった。首にも。
手首にも。
「ハジ、まだ、治らないんだ・・。」
その声を聞いた彼は、余計なことを、というような表情をした。

 瓦礫の跡から、這い出て、ファントムを追跡しようとしたハジのこめかみには、酷い傷跡が
あった。よく見れば傷は、こめかみだけではない。首も手も。皮膚はめくれ、肉が見えている。
赤い血がじわりと流れ出て・・。
痛々しい傷に驚き、ハジへ駆け寄ると右手で触れた。
その瞬間、ハジが、眉間にしわを寄せ、小夜の指先から顔を離した。
「・・・痛いの?」
ハジは、前屈みで右肩を左手で押さえた姿勢のまま、何も言わない。
「・・・小夜、早くクラスメートのところへ戻ってください。」
「でも・・・。」
「別に、大丈夫ですから。」
「でも・・。」
「戻ってください。貴方はリセの生徒なのです。早く戻らないと騒ぎになります。」
「でも。」
「あと、こういう事をこのような時にあまり言いたくないのですが、今回のような学校行事の
予定は、早めに知らせてください。急すぎて、今日もリセを出るのが大変でした。」
「・・・ご、ごめんなさい。私も、最近まで知らなかったから。」
ハジは、また何も言わなかった。
「私は、予定を作って出ましたので、用事を済ませて、リセへ戻ります。」
「本当に、ご、ごめんなさい・・・。」
「わかったなら、早く、皆のところへ戻ってください。」
ハジは、崩れて膝をつく。一瞬、息を殺したようなうめき声のようなものが聞こえた。一旦、
膝を付いてしまうと、なかなか立ち上がれないようだった。小夜は、慌てて彼の身体の脇の下に
入ると持ち上げるように支えた。思っていたより男の身体は、重い。
 ハジは、深く息を吸い、勢いをつけて再び立ち上がると、何事もなかったかのように埃と
汚れを払った。
「・・・私、戻るね。」
小夜は後ずさりしながら振り返って、そういうと、ハジは、無言で頷いた。
そして、ハジをそのままにして立ち去ったのだった。

 リセの庭からは満開の薔薇の芳しい香りが流れてくる。
「・・・じゃあ、授業が始まるから。」
小夜は、慌ててそういうとリセとの間にある門へ急いだ。
「・・・あ、ハジ。舞踏会の日は、ファントムを見張っていてね。」
小夜は立ち止まると、言い忘れそうになったことを急いで言い残し、来たときのように
軋む錆びた鉄の門を開けた。無邪気な少女は、リセの花の園へと帰っていく。
 ハジからは、返事はなかった。後ろの方で、木の扉が閉まる気配。

 そして入れ替わりに、その閉められた扉の向こうからチェロの透明で美しく物憂げな音色が
聞こえてきたのだった。



閲覧をありがとうございます。本編のアニメの進む速度が早く、リセにはもう戻らないように思えましたので、
大慌てで書きました・・。わざわざ、独りよがりな拙いお話を読んでくださいまして嬉しいです。
しかし、アニメを二次創作とはいえ、文章にするのは、難しいですね。





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花咲く庭