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宵蛍

12歳以上対象

妖は足を止めた。既に日は傾きかけている。何故、ここまで足を運んでしまったのかは、わからなかった。取りとめもなく、ただ当ても無く彷徨うように歩き続け、鬱蒼とした小暗い山の森を抜けただけ。目の前には、先に村があることを知らせる苔生した小さな石碑が傾いて立っていた。以前、ここを訪れたときには、下草は、刈り取られ、碑は見やすかった。些細なことが歳月を感じさせる。

----確かに見覚えのあるその場所。

視線の先に見える粗末な畑の向こうの開けた高台には、小さな村の集落の明かりが見える。夕餉の時間なのだろう。貧しい村の中央に点在する小さな破屋からは、煮炊きをする煙が立ちのぼっていた。村の入り口の手前の正面の川面から漂ってくる僅かな風は昼間と違って、ひんやりと冷たさを含んでいる。
日中の暑さとは打って変わった湿った冷気だった。いつの間にか薄闇が辺りを包み、夜の静寂が訪れようとしている。人里に近い小川。里の人間たちは、恐らく、この川から田へ水を引いているのだろう。

その時だった。

緩やかに里に向かって流れる、せせらぎの草の茂みから、朧な淡い小さな光が、一つ、頼りなげに立ち昇ってくる。妖は凝視した。

‥火垂るか。

儚い輝きが不規則に瞬きながら、ふわり、ふわりと、彷徨い、妖の目の前を横切っていく。生きているものならば、影響を受けるの大妖怪の結界など気にする気配すらない。まるで、この世の存在でない幻の如く漂っている。いや、もし幻ならば、所詮、結界など関係ないといえる。それとも、蟲ゆえの、ただの愚かさか。


「‥火垂るは、亡くなった人の魂なんですって。」


妖は、すぐ耳元で懐かしい少女の囁きが聞こえたような気がした。辺りを見回したが、誰もいはしない。だが、昔、誰かが、そういった。これは言い伝えなのだと。

火垂るは死んだの人間の魂だと、くだらぬ戯言を、この妖に言ったのは誰だったのか。
妖は記憶の糸を手繰り寄せながら、静かに目を閉じた。

‥ああ、そうだ。あの娘だ。人里で拾ったあの娘。妖は、まるで喉を絞められたかのように低く呻いた。得体の知れぬものに胸を衝かれる。


「‥ねえ、殺生丸さま。知っている?火垂はね、亡くなった人の魂なんですって。」


‥一体あれは、いつのことだったのだろう。随分昔。己が勝手に娶った人の娘を楓の村に戻していた時期があった。
あの娘は楓の村で育てられ、無事、長じた事を機会に館へ引き取ったものの、妖に囲まれる暮らしに疲れ果て、すっかり、やつれてしまったことがあった。人里を懐かしむ、その姿を哀れに思い、以前預けられて育った村へ戻してやったころだ。


妖は薄い瞼を閉じた。・・忘れもしない、あの、人の娘。


この胸の内の奥深く仕舞い込まれ、鍵を掛けられ、何人も入ることの許されぬ場所に眠る記憶。



*                       *                   *




「‥殺生丸さまったら・・。こんなところで、こんなことなさるなんて‥。」

娘は妖の胸から、頬を離すと、戸惑いを隠しきれぬように小さく呟いた。りんは困惑しきっている。幼さを残す若い妻は、夫がこのような無作法をするとは、思っていなかったのだろう。今宵、自分の元へ、なかなか 現れぬ妖に、娘は居ても立っておられず、足早に集落を出て、村の入り口の小川の畔で、夫が来るのを待ちわびていたのだ。痺れを切らしたころ、ようやく、現れた妖の姿を見つけると、我を忘れて、走り出し、その広い胸に縋り付いていたのだった。
娘なりに身窶しを尽くした其の艶やかな姿に、妖は、当惑した表情を少し浮かべた。

肩で纏められた豊かな黒髪。白い項。細い指。紅い唇。頬が上気し、細い肩が微かに上下していた。そして、腕に押し付けられた、少女胸元の柔らかな膨らみの感触が、大妖から理性を奪い去ったのだった。

闇に包まれていく草地で、妖は妻の身体を惜しみなく奪った。娘は臆することなく、妖にその身体を任せ、其の名を切なく囁きながら、睦み合った。

妖から張られる強い結界の中には、妖と少女の二人だけの絆が結ばれる。


周りがすっかり、暗闇になったころ、若草色の草の上には、藤色の大きな小袖が広げられており、娘は、其の上で花の文様の小袖を乱して横たわっていた。髪に結ばれていた飾り紐は、解け、草の上で文字を描いている。 
久しぶりに妻の元を訪れた夫である妖の寵愛は、激しく長かったのかもしれない。娘は肩を震わせていた。
少女は、たどたどしい手つきで薄物の小袖の袷をかき寄せた。


妖は、無言でその細い肩に薄絹の被衣を掛けてやる。丁寧に梳られたはずの妻の黒髪は乱れて、背中へ流れて落ちていた。
俯く娘は、予想外のことに困惑を隠せない。

「村の庵で、楓様と殺生丸さまのお迎えする準備も整えてお待ちしていたの‥。召し上がられるものやお飲み物やら、いろいろ準備していたのに・・。この小袖も殺生丸さまが、邪見さまに届けさせてくださったものを、この日にあわせて、下ろしたんです。」
少女は、恥ずかしそうに頬を染めた。

「‥あの庵には、楓とか言う、老巫女がいるだろう。」
りんは、首を振った。
「楓さまなら、今夜は犬夜叉さまとかごめさまのところにお泊りです。」
「‥‥‥‥。」
殺生丸は、無言になった。
「・・あの、昨日、かごめさまに殺生丸様がいらっしゃると、お話をしたら、今朝早く、犬夜叉様が、わざわざ楓さまをお迎えにいらしたの。最近、かごめが寂しがっているから、たまには俺のところで過ごしてやってくれって。」
「‥‥‥‥‥。」
「あのね、犬夜叉さまは、きっと殺生丸様が来ることを知って、‥気を使ってくださったんだと思うの。」
それを聞いた妖は、不愉快そうに眉を顰めた。其の様子に、りんは、不用意な自分の言葉に我に返った。
殺生丸と犬夜叉の不仲を知っていたのに、余計なことを話してしまったらしい自分が情けない。

「‥それにしても、楓の庵には、お前の身の回りの世話をするものはいないのか。」
りんは、あっさり否定した。
「‥あの村は都でもないし、決して豊かな村でもないし、そんな人を置く家はありません。それどころか、楓様は、村人を助けているくらいだもの。かごめさまもよ。楓さまの庵のすぐ近くに小屋を建てて、犬夜叉さまと暮らしているの。」
再び、異母弟の名を聞いた妖は、あからさまに、りんから視線を離した。その一瞬の雰囲気をりんは悟ったらしく、それ以上、村の話はしなかった。

二人に沈黙が訪れる。
突然、りんが、あら、と小さな声を上げた。
「あら、火垂る。ねえ、殺生丸さま。見て‥火垂るが‥。」

娘は、あたかも素晴らしい発見でもしたかのように白い毛の褥の上で上半身を起こした。懸命に闇に両の手を伸ばす。
「綺麗‥。まるで、お星様みたい。」

気が付けば、風下の沢の細流から、多くの蛍が乱れ飛んできていた。妖が結界を解いたせいで、虫たちが入れるようになったのだろう。少女の小さな掌がゆっくりと舞い降りてくる光を受け止める。

指先に乗る小さな儚い蟲。


「‥ねえ、殺生丸さま。知っている?‥火垂るはね、亡くなった人の魂なんですって。」


妖は呆れたように、ため息を付いた。
「‥実にくだらんな。火垂るから人の気配など感じんが。」
「もう‥殺生丸さまったら。」
娘は飽きることなく、いつまでも蟲の星々を眺めていた。



                *                         *






月日が流れ、やがて娘は年老いた。高齢のため、弱り、床に伏せがちとなり、外へ出かけることもままならなくなった。
そんなりんを不憫に思った従者の邪見が  外で沢山の火垂るを採ってきて、小さな部屋の几帳の内へ放ったことがあった。
黒々とした深い闇の中に淡淡しく蛍火が瞬き、小さな空間は、夏の星空のようになった。
初め、りんは大変喜んだ表情を見せたが、やがて、邪見に懇願した。

「邪見さま‥外へ戻してやってください。元の場所へ。彼らのいたところへ。」

その哀しげなか細い声を聞いてしまった邪見は大慌てて、再び捕まえると、外へ飛び出していった。

「蛍には、住まうべきところがあるのです。ここではなく、清らかな沢。」

‥‥住まうべきところ。

果たして、りんは妖の傍で多くの時を費やし、幸せであったのだろうか。

今となっては、わからなかった。

人里で所帯を構え、妖ではなく、ごく普通に人の子を生むことが出来れば、わが子が成人する姿を見られただろうが、それも叶わなかったのだ。 妻は、元服前の半妖の息子を残して、独り、この世を去った。

妖は、其の事実に慟哭する。


****


気が付けば、辺りは闇と静寂に包まれていた。川のせせらぎの清らかな音色が闇夜の中で響いていた。
りんは、この村で過酷な労働であるはずの田植えの手伝いをすることが好きだった。春が来て、水が温むのを心待ちにしていたものだ。
そして、田植えが一段落し、田が青々と茂るころ、かごめや村の子供たちと、蛍を見に来ていた。暮れ行く夏の宵を微笑みながら、幸せそうに過ごしていたのだった。腕には、妖の子を抱いて。

・・そう、何故か、いつも思い出されるのは、りんの、その屈託の無い笑顔だった。
それは幼い頃からで、長じても変わらなかった。

その昔、阿吽を傍らに、いつまでも己の帰りを待っていた幼い少女。己を見つけると満面の笑みを浮かべ、己の名を懸命に呼びながら走りよってきた。
長じてからは、微笑みながらも、恥ずかしげに伏せる瞳が愛おしかった。老いても我が子に向ける微笑も母親らしい慈愛に満ちていものだった。


妖は、嘆息した。
見上げれば、夜空には、弓のように細い三日月が掛かってる。


今は、その懐かしい少女の姿は無い。腕に産まれたばかりの赤子を抱き、大切そうに乳を含ませていた妻の姿も無い。
そして、年老い、やせ細ったその脚で、ゆっくり歩く老女の姿も無かった。りんは髪に白いものが混じっても、育ててもらった老巫女のように手入れを怠らず、身奇麗にしていた。身体が衰えても村へも恩を忘れることなく、妖の薬草を届けていたものだった。あの義理堅さは、一体、誰に似たのか。


川の向こうの村からは、昔、争った異母弟の匂いが微かに感じられた。あの男も、連れ添ったかごめという名の巫女を亡くしてからというもの、朽ち果てた廃屋に住んでいるという。どこにもかしこにも、かごめの思い出が残っていて、取り壊すことも新しく建てることも適わないのだと噂に聞いた。愚弟とは、そりが合わず、あれほど諍いがあったというのに、今は、不思議なことにその諍いの理由を、はっきりと思い出すことが出来ない。

・・・もっとも、奴とは、話をする気もないが。


「殺生丸さま。」

妖はまた、誰かに呼ばれたような気がして振り返った。もちろん、誰もいない。ただ、火垂るが舞っているだけ。
しかし、どこかで、少女の声が聞こえたような気がした。その声は澄んでいて、優しげな声色を帯びていた。妖は、昔、少女が幸せだと花開くように微笑み、自分に告げたことを思い出した。昔。それは、ずっと昔の・・・。


美しい蛍たちが、夜空をふわふわと漂い、辺りを仄かに明るく照らした。我に返れば、闇に蛍の光が溢れ、夜空は一面の星で満ちていた。天空には、硝子を散りばめたかのような天の川。あの娘が見上げていたころの夜空と同じだった。


・・だが、りんは、もういなかった。あの犬夜叉と添い遂げた巫女も。りんを育ててくれた老巫女も。


あたかも、全てが一夜の夢のごとく・・。


妖は一歩足を踏み出した。己は、どうして、こんな村まで来たのだろうか。そして、どこへ向かおうとしているのだろうか・・。
説明の付かぬ不可解な感情に戸惑いながらも、足はまた一歩と前へと踏み出す。鈍色の南蛮沓の足元から、淡い金色の火垂るが一匹、舞い上がった。
夜の更けた村の集落の明かりは、ほとんど消えていた。だが、外れにある朽ち果て崩れかけた小屋の灯りだけは付いたままだった。
犬夜叉の家に違いない。荒れ果てた破屋に住み着くなど、なんと酔狂な。いかにも愚かな犬夜叉らしい。たかが、かごめを亡くしたぐらいで、未だに毎日めそめそ泣き暮らしているのか。莫迦にもほどがある。


足取りは重いが、妖は、その明かりに向かって、歩き出す。

ここまでくれば、あの愚弟のいる場所も、すぐ傍だった。





読んでくださってありがとうございました。
昔、蛍は亡くなった人の魂だと思われていたようです。
りんが亡くなってからの殺生丸を描いてみました。
原作の最終回を読んで、りんは、楓の村を実家のように思って
時々、里帰りしているのでは、と考えました。
原作の犬夜叉も終了してしまいました。
寂しいですが、完結を迎えられて、ほっとした部分もあります。
留美子先生には、ゆっくり休んでいただきたいです。
先生、長い間連載をありがとうございました。